今朝の健康観察日記
二日つづけて、寝起きがつらい。
だるい。
何かしようとしても、うごくのが億劫で、やる気が出ない。
座って本を読むのも、何かを書くのも、楽しくない。
頭の動きもよくない。
勘違いや、うっかりミスばかりしている。
要するに身体も脳も疲労しているのだろうと推測。
たいしたこともしていないのに、なんでこんなに疲れるのだろうと思ったけど、よく考えると、結構いろんなことをしていた。本を大量に読み、調べ物をし、車の運転も長時間した。
そりゃ疲れるわ。(´・ω・`)
鬱なんぞが再発したらイヤなので、無理せず休養することにした。
二年目
あの相模原のやまゆり園の凄惨な事件から、昨日で二年になる。
犯人の顔を思い出すのも胸くそ悪いので、関連記事は見ないことにしようと思っていたけれども、どうしても目に入ってくる。
事件後にさまざまに発言をされていた、最首悟さんという方が、犯人から手紙をもらい、返事を書いたり面会に行ったりされているという。その記事を読んだ。
事件直後から「障害者は不幸を作ることしかできない」「人の心を失った“心失者”は安楽死させるべき」などと自らを正当化する主張を続ける植松被告。丁寧な言葉遣いでつづられた文面とは裏腹に、不幸を生み出す重度障害者をなぜ育てているのかと問い詰めるような内容だった。
「不幸を作ることしかできない心失者」を生かしておくのは、社会的悪であるという、犯人の強固な信念は、いまだにゆらいでいないらしい。
ただ、犯人に、その正義とするところを社会に認めさせるために、自らの命をかける(死ぬ)覚悟があったとは、到底思えない。この人は、自分の命をかけて、犯行を行ったわけではないのだなと、この記事で改めて確認した。
それは言い換えれば、自分の思想が世の中に認められるか、あるいは大多数の民意としてあっさりと成立するものと考えて、おそらく死刑などにはならないだろうと信じているということでもあるのだろう。
私も、最首さんと同じ、重度障害者の親という立場である。
だからこそ、あの事件に心底おびえたし、憤った。身体まで壊した。
けれども、もしも犯人から手紙が来たとしたら……
私もおそらく、返事を書くだろうと思う。
絶対的な相互理解の不可能性を目の当たりにしたとしても、それでも、言葉を綴るだろう。
だって犯人は、日本国内に住むすべての重度障害者の家族に向かって、「考えを改めろ(障害者を育てるな)」と迫りながら、その思想の正当性を社会に浸透させようとしているのだ。
そして、犯人に全面的に賛同しないまでも、考え方に「一理ある」とする人が、少なからずいることも、明らかになっている。増えているというよりも、そういう人たちは、もともと「いる」のだ。
障害をや難病を持って生まれた子供を見て、「ああいう子は早く死んであげたほうが親にとって幸せ」などと、穏やかにいう大人は、昔はいくらでもいた。そう言っていた人たちは、別に殺人嗜癖があるわけでもなければ常軌を逸した人物もでもない。「普通のおじさん、おばさんたちだ。それが常識だった時代が、かつて、確かにあった。
そして、いまもそれは、そんなに変わっていないのかもしれない。
直接的に死を与えるようなことを口にすることをはばかるというマナーが浸透しただけで。
そのかわり、そういう過去の「常識」は、よりマイルドに見える表現方法をとって、社会に負担を掛ける個人の存在に、疑義を申し立てるようになっているのかもしれない。
たとえば「生産性(子供を作るかどうか)」で社会的価値が計られ、税金による支援の度合いを左右することをよしとする意見を、国会議員が堂々と執筆し、雑誌がそれを掲載する。
当然のように記事は反発と炎上を引き起こすわけだけれども、その議員の真意はどうであれ、「生産性」が下がることを国の危機と捉え、そうした見方に「一理ある」とする人も、少なからずいることが、浮かび上がってくる。
上の小田嶋隆氏のコラムの、最後のところを引用させていただく。
結論を述べる。
杉田議員の主張は、言葉の使い方こそ無神経ではあるものの、日本の「民意」を代表する言説のひとつだ。
だからこそ、私は、絶望している。念のために説明しておく。
私は、彼女の言葉の使い方の無神経さに絶望しているのではない。
むしろ、彼女の無神経さにはシンパシーに近い感情を抱いていると言っても良い。私が絶望しているのは、彼女の主張が代表的な民意であるような国で自分が暮らしている、そのことに対してだ。
共感するが、絶望にとどまっていても、しかたがない。
しかし、「生産性」を正義とするトンチキな思想に、大切な家族の居場所ややすらぎが圧迫されつづけることについて、どんな言葉で「返事」を書けば有効であるのか、思いつかないのであった。