湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

七年目。

 3.11


2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18秒。

7年前の今日、ほんとにたまたま、家族全員が自宅にいた。

亭主は春休み。
息子は、風邪かなにかで学校を休んでいたのだと思う。
末っ子は幼稚園児だったけど、同じく風邪で自宅にいた(と、いま亭主に聞いた)

 

自宅療養中だった長女は、私と一緒に中学の「相談室」から帰ってきたところだった。

帰りの車の中から、息子の通う特別支援学校の学バスを見かけたのを覚えている。
息子がもしも登校していたら、あの地震の時刻、バスの中だったかもしれない。
私のかわりに亭主が迎えに出て、末っ子は一人で自宅にいたかもしれない。


長い揺れがはじまり、とめどもなく強くっていくのを感じながら、関東大震災南海トラフ地震がとうとう来たのかと思った。
(まさか震源が東北だとは想像もしなかった)

 

「あかんわ」

 

と亭主が言ったのをきっかけに、外に逃げようと決めた。(亭主は自分が「あかんわ」を記憶していないそうだが、私も子どもたちも聞いている)

マンションの倒壊も怖かったけど、窓ガラスや家具で怪我をしそうで、とても室内にいられる状況ではなかった。


家族五人で玄関に向かう途中、亭主の書斎と書庫(いまは長女の部屋になっている)をちらりと覗いたら、壁にぎっしり並んだ書架からナイアガラ滝のように本が雪崩れ落ちるところだった。あの光景だけは、死ぬまで忘れそうにない。


子どもたちは全員冷静だった。
とくに、当時中学一年だった、重度自閉症の息子が、よく大パニックにならずに避難してくれたと思う。


非常階段を降りて、外に出ると、とても寒かった。

 

近くの公園まで行き、そこでガラケーを開いて情報を集めて、初めて震源地震の規模を知った。

 

SNSなどを通じて、友人知人の無事を少しづつ確認したのは覚えている。
私は15:03に「我が家は全員無事 」と書き込みをしている。その後、15:37には「書庫がナイアガラだった。書斎も」と書いている。


東北にある私の実家(震度6をくらっていた)の両親と連絡がとれたのは、地震発生後、何日もたってからだった。


いつまでも強い余震が続いて居たけど、寒さに耐えかねてマンションに戻ろうとしたら、ガス漏れの可能性があるとのことで、調査が済むまでずっとエントランス前で待たされた。


その夜は、どうやって過ごしたのだったか。

もう思い出せなくなっているので、当時のSNSの自分の書き込みを、ひさびさに開いて記憶を新たにしている。


私の住む町は震度5強だったけど、幸いにして、電気・水道・ガスはそのまま使えた。
地震発生の夜、近所のコンビニは、弁当やサンドイッチなどの軽食は払底。飲み物類はかろうじて在庫があった。

 

息子は時折「お茶のみたい。ジャスミン(茶)」などといいながら、布団を被って、ほとんど動かなかったようだ。
この夜以来、一年以上、子どもたちはパジャマに着替えず、服を着たまま寝ていた。


情報が次第に明らかになり、津波や火災に見舞われた町の姿をテレビやネットで見たときには、胸がつぶれるような思いがした。
かつて、そこに私もいたのだから。

国道45号線多賀城仙台港仙台空港若林区荒浜…


傷が癒えていくことを、ただ願う。


黙祷。

 

 

 


今日の健康観察日記


昨日、息子の通所する介護施設での面談があり、ひさびさに外を歩いた。
片道20分。往復で40分。

 

車で行かなかったのは、目のかすみが強くて運転が不安だったから。
歩き通せるかどうか不安だったけど、体力的には問題なかった。
ただ、膝がものすごく痛くなったので、途中何度か座り込んだ。

体を動かしたあとの気分は、かなりよかった。


膝のサポートを考えながら、運動を積極的にすべきだなと実感。
何か、方法を探してみよう。

 

ADHD


いまに始まったことではないけど、うっかり、物忘れ、カンチガイの頻度がものすごい。


とにかく数分前のことをスコーンと忘れるというのが、このところすごく多い。

ついさっき「どこかに入れた」はずの眼鏡や鍵や駐車場の券が、どこにあるのか全く思い出せなかったり。


「確実に机に置いた」つもりの本やノートが、どこにもなかったり。


若いころからそうだったのだけど、なんだかんだでやりくりして、社会生活を送ってきたはずだった。そのやりくりのスキルが、どうやら相当に劣化しているらしい。


当面は、地道に立て直すしかない。

気持ちはADHD薬の治療に、だいぶ傾いている。
月末の診察日まで、考える。