湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

短歌雑誌と函館と認知心理学

短歌雑誌

 

短歌をきちんと学びたいと思うものの、何をどうしたものか分からないから、手元にある短歌雑誌や歌人の本を、とくに選ぶこともせずに片っ端から読んでみている。


読んだだけだと、私の脳はすぐに忘れてしまうから、ノートに書き留めてみたり、連想されることを書き留めてみたり、そうするうちに横道にそれていって、ここのブログには短歌とは関係のないことばかり書いている。

「あっ」と思って、短歌の本に戻る。
また横道にそれる。どんどん離れる。
その繰り返し。

体を動かすのは嫌いなくせに、頭のなかはどこへでも飛んでいって、落ち着かない。
子どものころからそうだった。

本を読むときも、同時に三冊くらいを平行して、さらに映画鑑賞なども挟みながら読書するのが習慣になっているのは、ここのブログを継続的に見ておられる方ならうすうす察しておられることだろう。半分読みかけて、最後まで読むのを忘れてしまうことも、しばしばだ。それで何年もたってから、残りを読んだりしている。


関連するものを、どんどんつなげていこうとするから、そういう読み方になるのだと、自分で分かっている。非常識な読書法だろうけれど、変えるつもりはない。そうでないと楽しめないし、分厚い関連性を作れたものしか、どのみち記憶に残っていかないのだ。

 

で、角川「短歌」の三月号が届いたけれど、二月号に読み終えていない記事があるから、そちらを手にとっている。

 

 

短歌 30年2月号

短歌 30年2月号

 

 

 

冒頭に、松村正直という歌人のかたの歌と文章がある。


「時間(とき)のあやとり」という連載で、1回目(一月号)は「東京駅」について書かれているが、二月号では「函館」である。

 

のぼり来てひとり見下ろす函館のルビンの壺のような夜景を 松村正直

 

函館の夜景を直接見たことがない。
一応知識はあるから、「ルビンの壺」と言われれば、くびれた陸地が光る夜景を思い浮かべることはできる。

 

ルビンの壺 - Wikipedia

 

でも、函館のくびれは、ルビンの壺のように人の顔が向き合ったような形にはなっていないような気がする。


googleで「函館 夜景」のキーワードで画像検索して確認してから、さらにgoogleマップの航空写真や、函館山緑地からの眺望の写真を見てみたけれども、やはり顔ではないし、壺でもない。


ただ、夜景の写真は、漆黒の海のほうに意識を強く置くと、得体の知れない生き物の頭が両側から抉りこんで互いに迫っているようにも感じられる。

 

作者が函館の夜景を「ルビンの壺」に見立てたのは、形が壺のようだからというだけでなく、認知心理学的に、地上と海がどちらも「図(形)」になり「地(背景)」になりうるものとして捉えたからなのだろうなと、想像する。




函館

 

松村正直氏は、津軽海峡線に乗って函館に降り立ったのだそうだ。

私は1988年、青函連絡船が廃止される年の夏に、それに乗って函館と青森を往復した。

そして、えらい目にあった。

大揺れする甲板のそこかしこに、ラーメン食べたらしき人々のゲロが嫌と言うほど点在する光景が、いまもまぶたの裏に焼き付いている。


その後、人の何倍も重かった「つわり」の最中ずっと、青函連絡船に乗っているような気がしていたものだった。(おえぇぇぇぇぇ)


函館に、短歌になるような思い出があっただろうか(吐き気とゲロまみれ甲板の他に)。

 

友人たちと急に思い立って津軽海峡を渡り、急遽予約した安宿についたら、部屋のゴミ箱の底にコンドームが貼り付いてるような部屋だった。印象最悪。夜景も見てない。いつか記憶を塗り替えたいけど、なかなか機会がなさそう。(´・ω・`)

 

 

認知心理学に寄り道


ウィキの「ルビンの壺」の記事のなかに、思いがけない記述があった。引用する。

 


障害のある子どもの場合、2つの見方のうちの一方しかできないというケースもある。これは、絵と認識する「図」となる面と背景となる「地」となる面の切り替えができず、「図-地知覚障害」の状態とされる。

このため、特別支援教育における子どもの学習行動上、「図-地知覚障害」を有することは、その子どもにとっては「ノイズ」要因となりうることを意味する。

 

「図-地知覚障害」という言葉を初めて知った。


これ、うちの息子も可能性あるだろうなと思う。

脳性麻痺の人に多い症状だそうだけど、自閉傾向のある知的障害の場合はどうなんだろうか。
検索をしても、ちょっと情報が見当たらない。

 

息子は幼児のころ、絵本を嫌って、目に入れようとしなかった。
テレビも同じ。カーテンをひっぱってきて、画面をほとんど隠して、隅っこだけを見ていたりした。

 

好きなのは文字だ。線で書かれた記号は、迷いなく理解できる。

「線=図」というふうに認知されているのかもしれない。


短歌を読んで調べていて、思いがけない寄り道が出来た。うれしいことだ。