湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

足が冷える日曜日

今日の健康観察日記

 

なんだか急に気温が冷え込んでいるので、油断せず、体をあたためている。

 

体力はずいぶん戻ってきたように思っていたけど、昼間、スーパーで買い物してたら、エネルギーが切れて具合がわるくなった。

 

二時間以上の外出は、まだきつい。

様子をみながら運動量を増やすしかないか。

 

 

自分の時間の価値について

 

日曜日なので、末っ子と一緒に教会へ行って、ヨハネ福音書の12節の冒頭にある、ナルドの香油のお話を教えていただいた。

 

マリアという女性が極めて高価なナルドの香油をイエスの足に注ぐのを見たイスカリオテのユダが、その香油を売って貧しい人々のために使うべきではないかと、マリアを批判する。するとイエスは、この香油はまもなく自らが葬られる日のためにマリアがとっておいたものだから、そのままさせておきなさいと言う。

 

イスカリオテのユダといえば、この後まもなくイエスを裏切って敵に売ることになる人物で、ヨハネ福音書でも、彼は貧しい人々への同情心なんか持ち合わせておらず、イエスたちの予算を管理する立場にありながら、お金をちょろまかしていたぐらいの奴だと、散々な書かれかたをしている。とはいえ、大金に目が眩んだり、惜しんだりするのは珍しくもないことだし、ユダもよくいる利己的な人というだっただけかもしれない。

 

マリアがイエスの足に使ったナルドの香油の量は、一家族の年収に匹敵するほどだったというから、ユダでなくても驚愕するような贅沢であり、普通の金銭感覚ではあり得ないレベルの浪費であったのは間違いない。

 

でも、どんなに高価な香油も、人ひとりの命よりは高くない。

 

ヨハネ福音書では、この香油のくだりの頃には、イエスを取り巻く状況が、相当に険悪になっていることが書かれている。イエス自身も自分が葬られる日の近いことを示唆しているし、マリアを含めた周囲の人々は、そのことを内心わかっていたはずだ。

 

マリアという人にとって、かけがえのない存在が失われようとしているとき、一家の年収一年分の香油を使い切って、その人をもてなすことは、心にかなった正しいことだったのだろう。

 

ちょっと話がそれるけれども、直接にはお金にならないこと、生産性のないこと、誰の助けにもならないことに時間を使うことに対して、「ムダ」と感じたり、断じたり、場合によっては糾弾したりというのは、よくあることだ。

 

私など、身体を壊して家事もまともにやらないし(壊す前から家事はすこぶる苦手だったけど)、少し前までやっていた在宅ワークも復帰の見込みが立たないし(納期のある仕事は人に迷惑かけるから今は無理)、暇さえあれば本を読んだり、映画を見たり、こんな役にも立たないブログばっかり書いたりで、気の落ち込んでいるときなど、ひょっとしたら自分は生きた粗大ゴミなんじゃないかと思わなくもない。

 

ユダ的(財布的)視点や価値観からしたら、間違いなく存在するだけ「ムダ」だろう。

 

でもユダは結局お金のせいで悲惨な末路をたどったらしい。彼の価値観は、信仰ばかりか、大切なはずの自分の人生すら守れなかった。死後の評判も散々だ。二千年も聖書で叩かれ続けているのだから。

 

ナルドの香油について詳しく知らないけれども、とても強い香りと、殺菌作用があるため、死者や死にゆく人の身体に塗ることで、腐敗の進むのを遅らせたり、腐敗臭をやわらげたりする効果が期待されたらしいとのこと。それを塗るというのは、ある意味、その人の存在を深く尊ぶことでもあるかもしれない。

 

 だったら、お金にならない私の時間を、最初からナルドの香油みたいなものだと思っておいてもいいんじゃなかろうか。

 

 自分がいちばん大切だと思うことに、自分の時間と(しょぼい)体力を使うようにしよう。できるだけ。

 

 

それにしても、ナルドの香油って、どんな匂いだったんだろう。腐敗臭をも凌駕するというのだから、相当なもののはずだ。