今日の健康観察
横になって寝ているぶんには、そんなに具合の悪さを感じないのに、起き上がったとたん、ガリガリと体力が削られる。買い物に出かけたら、へんな汗が出て、立っていられなくなって困った。
夜になってら、聴覚過敏が始まって、些細な音が神経にこたえる。やろうと思ってたことの大半を取りやめて、とっとと横になった。
映画
「サン・オブ・ゴッド」を見た。
字幕版を選んで鑑賞。
イエス(ジーザズ)が使徒のペテロ(映画ではピーターと呼ばれてた)に出会ったところから、十字架にかけられたのちに復活を果たすところまで。
見ながらとりとめもなく思い巡らした。
聖書の知識が多少はあるから、イエスが復活するのだとわかっているけれど、それでも母親マリアの目の前で無惨な死を遂げる場面は、とてもつらい。母親にとって、あまりにも酷い運命だと思うから。
先日読んだ、三浦綾子「母」で、小林多喜二が獄中で拷問死したのち、母がその遺体と対面する場面と重なってしまう。
社会の仕組みを変えようとしていると権力者側に受け止められて、死に追いやられた人は、歴史の中でどれほどの数になるのだろう。
何千年も前から繰り返されているのだから、これはもう、人間の社会にあらかじめ刷り込まれてあることなのかとも思えてくる。
「サン・オブ・ゴッド」では、イエスは、ユダヤ人を虐げるローマ帝国への反感が高まっている時期のエルサレムに入ったために、民衆を扇動する異端者として、ユダヤ教の偉い人たちに忌まれ、さらに反ローマ帝国の勢力の指導者を求めるユダヤ人たちにも憎まれる様子が描かれている。
イエスがあの時期のエルサレムに入らなければ、あるいは捕まる前に逃げおおせていたなら、どうだっただろう。慕う民衆の数は膨れ上がり、やはりいずれはローマ帝国に対抗する勢力と認知されて、弟子や信者たち共々、迫害の対象となったのかもしれない。
神様は、なんでそんな最初から詰んでいるようなところに、救世主を生まれさせたのかと。結果を見れば、世界のものすごく広い範囲で信仰される宗教になったのだから、間違いではなかったのだろうけれども。