埼玉県立近代美術館で、障害者アートの企画展が開催されていて、それを見に行ってきた。
「うふ🖤 埼玉でこんなのみつけちゃった♪」
第八回埼玉県障害者アート企画展
病院の帰りに、電車で迂回して立ち寄ったので、体力はギリギリ。駅を出て美術館の敷地に入ったところで遭難しそうになったけど、なんとか館内にたどりつき、無事見学できた。(企画展は入場料無料)
素晴らしかった。
足腰が痛いのも忘れて、一つ一つの作品に見入った。
いつまでも見ていたかった。
自分が重度の知的障害者の息子を持つ母親だから、家族の立場での感情移入を起こして感動するのだろうかと、自問した。違うと思った。
作品から迫ってくるのは、そういう感傷とは次元のちがうものだったと思う。
だって、見れば見るほど、自分も描きたくて、作りたくて、たまらなくなるのだから。
本を購入した。
上の展覧会でメインに作品を発表されている作家さんたちが所属する、「工房集」という、生活介護型施設についての本だ。埼玉県立近代美術館でも販売しているけれど、私は末っ子がお世話になっている病院の売店で購入した。
中に、こんな一節がある。
人類は他者との共感をもとに社会を築いてきたといわれる。「工房集」でも、共に時間を過ごすなかで育まれた信頼関係が、ゆるやかにつながりを生み出している。私たちは、そこから生まれた作品を通して、まだ見ぬ世界の姿を、未来を垣間見るのだろう。
障害者、とくに重度の知的障害者は、多くの人々の共有する意識のネットワークから、遮断されたところに置かれているのだと思う。
みずから発信することの難しい彼ら。
言ってもわからないだろうと予見し、相互通行的なコミュニケーションをはなから諦めている周囲(たとえば障害者施設の内側に入ることのない人々)。
そうした断絶が、彼らを渡るすべのない川の「向こう側」に押しやり、心理的に遠ざけ、やがて「得体の知れない、恐ろしいもの、厄介なもの」であるかのようなイメージが、かぶせられていく。社会に余裕がなくなるにつれて、そのかぶせられるイメージに、「税金の深刻な負担となる福祉の対象」という、損得勘定を帯びた否定や批判の心情が加味されてしまう。
それが最悪の形で表面化したのが、昨年の相模原の知的障害者施設での事件だった。殺すべきであるという思想のもとに、それを実行してしまった犯人には、自分に共感する社会の大多数の意識が犯行の正当性を支える後ろ盾になるはずだという確信があったようだ。
あの犯人は、自ら施設で働きながら、心情的に障害者の側に渡り、寄り添うことはなかったのだろう。言葉を発しない、コミュニケーションの難しい人を選んで(そうであることを確認しながら)危害を加えていたという記事も読んだ。
だから、発信しなければダメだと思ったのだ。
皆、ここにいるし、それぞれのやり方で生きることに勇敢に立ち向かって暮らしているのだと、外に出て向かって伝えていかなくてはと。
美術展には、ぜひまた行きたい。
そしてできれば、会場に行けない人のためにに、さまざまな方法で発信してもらいたいとも思う。本や、画像や、映像で。
そんな気持ちも込めて、このブログを今日は書いた。
うちの息子(重度の自閉症)は、絵画造形には興味がなく、絵を描くことも滅多にない。そのかわり、毎日文字は書く。言葉は文字で覚えるので、聞いた言葉を記憶しようとするときは、指で空書しながら覚える。
このお正月には、ひさびさに墨と筆で書き初めをやってもらおうかと思っている。勢いのある、よい字を書くのだ。