見出しつけなきゃ。
とりあえず今日のありさま
【目が! 目があああああっ!】
ムスカ大佐の真似してるのではない。
目が痛くて、朝の三時に目が覚めちゃったのだ。
原因はドライアイ。
無呼吸症候群の治療器具であるところのCPAP(シーパップ)の、マスク部分のベルトが緩んでいて、隙間から漏れた空気が目を直撃し続けたため、眼球が乾いて傷がついたのだ。
CPAPから送られてくる空気には、かなりの圧がかかっている。それが狭い隙間から漏れでて、ピンポイントで目に当たると、まぶたを閉じた状態であっても、眼球の表面に届いてしまう。そこを無意識のうちにこすったりして、傷をつけてしまうのだと思う。
これを食らうと泣くほど痛い。泣くと涙がでるから目が潤っていいのだけど、痛みが引くまで半日はかかる。
予防するためには、マスクのベルトをしっかり調節すればいいのだけど、装着するときは大抵猛烈に眠くなってるから、ついついいい加減にやってしまう。
で。このありさまである。
中途覚醒すると、一日中疲れが抜けない感じになる。せっかく、鬱が薄れてきてるのだから、ほんとに気をつけないと。反省。
はてなブログのお題機能
反省したところで、話題を変えてみる。
ここの日記は、もともと、寝込んだまま、健康状態の記録を取ることが目的ではじめたので、書くネタに困るということが、まずない。
お題を共有する機能があるのは把握していて、時折覗いては見ていたけど、書きたいと思えるお題がなかったので、ずっとスルーしていた。
でも今週のお題は書けそうなので、書いてみる。
今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」
具合が悪くて寝込んでいると、とにかく書きたくなる。
無為であることがストレスになる、というのが理由の一つかもしれない。
前にもそんなことを日記に書いた気がする。
休養しなくてはならないのに、無為であることに疚(やま)しさを感じるようでは、休養にならないから考えを改めるべきだと。
でも、やっぱり書くことはやめられない。
家事はサボっても、日記はサボらない。
書き物を仕事にしていたわけではないけど、考えてみると、この数十年、書かずに暮らしたことがない。毎日、何かを書いている。なぜだか分からない。好きなんだろうとは思う。
読んでくれる方々との距離の近いSNSだと、書きにくく感じて更新をやめてしまうこともあるけど。ここにはそういう縛りがないから、書けるだけ書いてしまう。
そしてやっぱり、誰かに伝えたいという気待ちがあるから、書くのだとも思う。
ここに書いているようなことは、大勢の誰かの役に立つものじゃないし、読んで面白いものでもないだろうけど、この世界のどこかにいる、私のような人が、たまたま立ち寄って、うんうんと頷いたりすることがあるかもしれない。いや、あると確信している。だって私も、そういう文章にときどき出会って、画面の前で頷いているから。
こうして書いたものが、ほんの一握りの人にとって、選ばれたオアシスになれるなら、それはすごく愉快なことだと思うのだ。
今週のお題の話はどこにいった?
微妙にお題からズレたようだ。
ブログを書きたくなるとき、じゃなくて、なぜブログを書くのかという話になってる。まあいいや。
大勢の人の役に立つようなブログは、そういうものを書くことができる方々にお任せする。
私のブログは、大勢の人の役にはたたないものを目指そう。
役に立たないものというので、「文学」を思い出した。
私は文学が好きだし、大学も文学部を出た。
でも、実学系の人たちには、時折バカにされた。
「そういうの研究して、なんの役に立つの?」
こうした質問には、たいてい、揶揄や嘲笑の色がまじっているから、若い頃の私は、当然、腹を立てた。
でも、反論できずに終わっていた。
私がやっていた分野は、医学や科学、法学などのように、人を助ける役にもたちそうにないし、就職に有利なものでもなかったからだ。
いまなら、平然と受け流せる。
役に立つものが、いつか役に立たなくなったら、それは無価値なものだろうか。
例えば、平安時代の暮らしや政治に役に立っていた実学は、いまの社会では、何の役にも立たないものが大半だろう。それらは歴史的事実として、現役当時とは別の意味を持つものになっている。
そして、当時生み出された文学などの芸術作品は、ここの国の文化として、今も学ばれ、愛されている。
価値や必要性なんて、簡単には決められないし、わからない。
そういうことが見えなくなる社会は、なんだか怖いと思う。
そろそろまとめたらどうかと
どうだろう。
まとまらない気がする。
なので、これで終わり。