ブログに「見出し」を指定する機能があることに、今更ながら気づいた。
読みにきて下さる方もいるのだから、多少なりとも読みやすいように書きたいなと思って、使ってみようとしてるのだけど……
見出しで何を見出せばいいのか
うーん…
やっぱり見出しがあると、邪魔くさい(⌒-⌒; )。
どうも、私は「見出しのある文章」を書くのが苦手らしい。
頭ん中が、常にぐっちゃぐちゃだからかもしれない。
思考も記憶も、階層構造になっていないのは、なんとなく自分でもわかる。
私にとっては、自分の健康問題も、政治も経済も、上空を飛んで行くどこぞのミサイルも、家族の問題も、さっき読んだ空海と橘逸勢が主役のグロいマンガ本も、IT関係の用語がちんぷんかんぷんなことも、全部横並びになっている。あるいはがっぷり四つに組んでのたうち回っている。
そのぐちゃぐちゃから、思いつくままに切り取ってここに書いているのだから、そもそもここの記事の一つ一つが、脳内状況の「見出し」みたいなものであるとも言える。
だから、さらにそれを細かに区切ってラベルをつけようとすると、書きたかったことの全体が見えにくくなってしまう、と感じる。
きれいなバラの花の写真を細かく刻んで、一つ一つに「花弁a」「花弁b」「葉d」「茎の上部五センチ分」みたいに部位名をシールで貼って、縦に並べて見せるは、微妙に猟奇的な気がするけど、それに近い感じに思えるのかもしれない。
かといって、先に「見出し」を決めておいて文章をかくのも苦しい。書けば書くほど最初に決めた見出しと合わなくて、なんだかつまらなくなってしまう。
そして見出しに見限られる
つまり、たぶん行儀よく文章書くのが苦手なんだな、私は。
私にとって、見出しというのは行儀要素で、だからどうしても、行儀の悪い本文と反発し合っちゃうのかもしれない。
短歌や俳句は、見出しが必要ないところが、好きだ。だって、行儀を気にする前に完結しちゃうから。どちらも定型だけど、型はむしろ短い言葉のパワーを増幅させる要素になってると思う。
そうだ。
いっそ、見出しを独立した俳句的要素みたいに考えることにしようかしら。
見出しは見出しで勝手にやってもらう
うん。それでいいや。
こちらも見出しを気にせずのびのびやれる。
うまい共生のしかたかもしれない。
しかし脳は平安初期を漂っていた
そうそう。
このマンガ本を読んだのだ。
末っ子の勉強の付き合いで、平安初期を調べてて、最澄や空海の存在がかなり不思議だったので、なにか読み物がないかと探したら、これともう一つ、漫画作品がヒットしたので、まずこれを読んでみたのだ。
夢枕獏原作なので、かなり幻想的な内容になっているけれども、恐ろしく有能だったこと以外、なんだかよくわからない空海という人を、だいぶイメージしやすくなった。
それと、橘逸勢(たちばなのはやなり)を一発変換してくれる、iPhone6の辞書、すごい。