Amazonビデオの、見放題の作品リストをちらちら見ていて、見つけた映画。
松山ケンイチ主演。
好きな俳優さんだけど、この映画の存在を全く知らなかった。
脳の余力(鬱的な意味で)を計量して、なんとか鑑賞できそうだと思ったので、iPhoneで上映開始。
魅力的な場面は数多くあったし、舞台になった沖縄の町とエイサーには心惹かれたし、物語の設定も面白かったし、松山ケンイチをはじめとして、俳優さん、女優さんの演技も、本当に素敵だったと思うのだけど…
作品全体を結んでいるテーマに、どうしても頷けない部分が残った。
全世界の人々の運命の成り行きは、天界のようなところで、無数のシナリオライターの手によって、「書かれて」いる。
ライターたちの中には、書き手としての才能も責任感もモラルもない、薄っぺらい者たちが混じっているため、人の運命は、時として実にくだらない理由から、悲惨極まりない末路をたどってしまうこともある。人の運命は他者とも連動するものだから、真摯なライターのシナリオも、くだらないシナリオの影響を受けて、台無しになってしまう場合もある。
薄っぺらな書き手による運命のもたらす悲惨さを表現するために、この映画自体のシナリオは、孤児であることや、不治の病、身体障害などの事例と、凄惨な暴力とを、これでもかというほど、ふんだんに画面に持ち込んでくる。
そこまではいい。
でも、本人の強い意志があれば、ライターの作ったくだらない運命なんか変えていけるのだ、という話になってくると、それはどうだろうと言わずにはいられない。
映画のヒロインは、松ケンが演じる天界の住人であるところの、茶助の超能力と奔走によって、本来なら暴走車に轢かれて死ぬはずだった運命から、まさに奇跡的に逃れられた。さらに、茶助と出会うことによって、失っていた声を取り戻すこともできた。
だけど、世の中の交通事故や殺人の犠牲者の元には、茶助は決して現れない。治癒の見込みのない病気や障害を持つ人々も、治癒の奇跡を行う茶助と出会うことはできない。
映画の中で、茶助の治癒能力にすがろうとして列に並んだものの、とうとう順番の回ってこなかった人たちは、結局はライターの書いた運命に甘んじるしかなかっただろう。
不幸な事態の多くは、本人がどれほど強い意志をもつかといったこととは無関係にやってくる。何をどうしても回避できない運命というものは、確実にある。死だってそうだ。どんなに健康に恵まれた人だって、いつかは死ぬ。
人と運命の勝負は、人側が絶対に勝てないことを前提として、負けて終わるギリギリまでを、どう戦うか(どう生きるか)というところに、見せ場があるものだと思う。誰に見せるわけでもないけど。
たぶん、私自身が重度障害者の母親だから、そのあたりに過敏に反応してしまうのだろう。
人生に茶助はいない。
そもそも茶助という人は、死んだ後に、まさに意志の力で文字通り起死回生したわけで、そんな真似は誰にもできない。
でも、それはそれとして、松ケンの演技、かっこよかった。
茶助の妹役の早乙女茶子も、とても印象的だった。
小説版もあるらしい。