( 2008年05月14日)
かつては、その怖ろしさを学びとるために、遠くまで出かけていった人もあった。つい先ごろまでの時代には、それはもっともたやすく手近に成功したし、その技術はものすごいほどにマスターされたものだ。
しかし、いまはもう、その恐怖をつくりだす張本人は別として、もっと私たちに適合した感情が生まれていてもよいはずである。
「希望の原理」第一巻 白水社
p17 前書き
ここの箇所には、理解しにくい部分がいくつかある。
「怖ろしさを学びとるために、遠くまで出かけ」るとは、具体的にどのようなことなのだろう。
私が真っ先に連想したのは、大航海時代である。ヨーロッパから、アフリカへ、あるいはアメリカ大陸へと、船で渡るという冒険は、まさに「技術」で「恐怖」を克服する行為であると言えそうに思う。
宇宙旅行も、同様であるかもしれない。
けれども、「遠くまで出かける」技術の著しい発達が、人の抱える根源的な「わからなさ」に由来する恐怖を少しでも薄めたのかと問われれば、そうではないようにも思う。
次に分からないのは「その恐怖をつくりだす張本人は別として」の部分である。
「張本人」というからには、人間であるのだろうが、その人物の作り出す恐怖とは、いかなるものであるのか。またどのような動機によって、恐怖を作り出すのであろうか。
わからないままに想像するしかないのだが、他人を恐怖に陥れることを意図する人間は、自らがよく恐怖を知っている人間であるというのは、間違いないところだろう。
恐怖は、他者を支配する技術として有効なものであるから、恐怖を作り出そうという意図の裏には、何らかの目的で、相手を支配する必要性があるのだろう。
そういう意図を持つ人間には、たしかに未知のものに対する恐怖感を学び取る必要性があるのかもしれないが、そうでない人々にとっては、「もっと適合した感情」があってしかるべき、ということを、ここの文章は語っているのだろうと思う……けれども、確証はない。
(過去日記を転載しています)
(転載日 2025年7月3日)