湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

絵本メモ「蒼い時」

 「蒼い時」 エドワード ゴーリー(Edward Gorey) 著  柴田 元幸訳

 

蒼い時

蒼い時

 

 

 

薄気味悪い本である。

 

まず、最初のページの、「あいしあお 。」に、やられる。

 

「あ」の活字の、左三分の一ほどが消えていて、絵の中のおそらくは「Love」であるはずの綴りが「obe」となっているのを見ただけで、神経がクラッとして、具合が悪くなってくる。アナグラムのつもりなのか、パズル的仕掛けなのか、意図はさっぱり分からないが、言葉の意味をまともに提示しようとしていないことだけはよくわかる。

 

全ページに出てくる、二匹の異形の動物は、愛なんか少しも語ってはいない。ほとんどのページで互いに向き合っていながら、彼らの四白眼は相手からきっちり視線を外している。同じ姿で、同じ服を着て、似た動きをして、常にそばにありながら、会話は微妙に嚙み合わないか、対話に発展せずに行き止まる。

 

彼らに二人(二匹?)でいる意味はあるのか。片方が死ぬか消えるかしたら、もう片方はどう感じるのか。もしかすると二人(二匹?)と見えるのは目の錯覚か幻覚で、実は一個体だけの存在なのではないか。

 

「生きることじゃなくて、生きてもらうことが大事なんだ」

自他の区別が曖昧すぎて、自分の中に分裂した自我が出来てしまえば、こんなことを口走りたくもなるのではなかろうか。


彼らはおそらく自由意志ではどこへも行けない存在である。ボートに乗れば、オールは黄昏の空に飲み込まれた影となって飛んでいく。自転車を持ち出せば、足もとはささくれだった山の頂上となり、歩くことすらおぼつかない。せっかく自動車があっても、運転せずに屋根に座り、

 

「Foodとは?」
ニューハンプシャーにある小さな町」

 

などとつぶやいている。彼らは生きてさえいない存在なのかもしれない。食物、食品、養分、あるいは心の糧もしくは餌食となるものが、存在しない小さな町と認識されて済むものならば、自らが生きることはさして重要でもなくなるだろう。だから「生きてもらうことが大事」などという言葉をメモしておこうと思うのだろう。

 

自他が曖昧に解け合い自己が分かたれ、どこへも行けず、命の実在感すら失うひととき。

 

おそらくは私もそうした時空を体験している。この本を読んで感じる気持ちの悪さは、たしかに覚えのあるものだ。


これは黄昏だけの現象であるのかもしれない。一日中こんなだったら、生き物として、病んでいる。気持ちが悪い。これはやっぱりゴーリーの絵本なのだ。


蛇足だが、書店によっては、この本や、「不幸な子供」や「ギャシュリークラムのちびっ子たち」を、愛らしくて毒のない幼児向け絵本と並べて売っている。意図的にそうしているのか、中身を知らずに「絵本だから児童書の棚」と、無邪気に振り分けられているのか。見かけるたびに、店員さんに聞いてみたくなるのだが、聞いたからといってどうなるものでもないと思い、黙って素通りし続けている。


ちなみにうちの子供たちには、まだ読ませていない。五年生になった長女がそろそろイケるだろうか、と思って見ているのだが、そこらに置いていても、まだ手をのばしてはいないようだ。

 

2007-09-22

 

(2007年09月02日)