前回の家持の歌と同じ「あきされば」「天の川」「霧」をパーツに持つ歌は、けっこうあるらしい。
下の人麻呂の歌もその一つ。
秋去者 川霧 天川 河向居而 戀夜多
これがうわさの正訓表記だ。漢文と一緒で、字面で意味はなんとなく分かるけど、どう読むかが難しい。
たとえば、
あきされば かはぞきらへる あまのがは
かはにむきゐて こふるよぞおおき
これは、昨日使った桜楓社の「萬葉集」(鶴久・森山隆編)が採用している読み。
他にもたぶん、読みはたくさんあるはず。「川霧」のところを「川霧立てる」とするとか。その場合は「霧」を名詞と考える。「きらへる」と読む場合は、「霧」は四段活用の動詞「霧る」となる。意味は、
1. 霧が流れる(その結果、けぶってよく見えない)
2. (涙で)くもってよく見えない状態になる。
(岩波古語より)
という感じ。
読みの確定は私には荷が重いので、この程度にしておくとして・・・。
この歌、かなり、変である。
何が変だといって、上の読みだと、まず一首のなかに、「ぞ~」の係り結びが二つもでてくることになる。いささかくどい。暑苦しい。
それに加えて、「かは」が三つも出現している。
「川」ぞきらへる
天の「川」
「河」 にむきゐて
この歌の前後には、天の川を詠んだ人麻呂の歌が、ずらーっと並んでいるのだけど、ざっと見たところ、一首に川三つというのは、長歌を除いては見当たらない様子。
他の単語の三回以上繰り返しがあるのかどうかも調べてみたいが、いまちょっと余裕が無い。
ここまで畳み掛けるように川を流さなくてはならない理由は何なのか。
わかりましぇん。
と言ってしまうと話が終わっちまうので、多少考えてみる。
一つには、歌だから、というのがあるのかもしれない。
おんなじ音が繰り返されると気持ちいいというのは、音楽では普通のことだ。韻を踏むっていうのに近いのかもしれない。
たとえばこんな歌がある。
われはもや 安見児得たり 皆人の 得がてにすといふ 安見児得たり (95)
われはもや やすみこえたり みなひとの えがてにすとふ やすみこえたり
【意訳】(またの名を誤訳)
オレ様ってば、やすみこちゃんを
ゲットしちゃったもんね~。
みんなが狙ってダメだったっつー
難攻不落のいい女
やすみこちゃんを、
オレ様、ゲットしたんだもんね~。
作者は藤原鎌足さん。歴史に名高い藤原さんちの元祖にしてはエロオヤジ風味丸出しの、品の無い歌だ。無邪気なはしゃぎっぷりが、「やすみこえたり」のリフレインに現れていて、恥ずかしいったらありゃしない。
私は万葉集の選歌の事情とか、全然知らないんだけど、この歌選んだのも家持なんだろうか。
だとしたら、多少は、藤原さんご一党に対する皮肉な気持ちみたいなものが、選択基準にまじってたり、しなかったのかなと思わないでもない。アホな歌選んでやって、後世に恥さらしとけ、みたいな。ま、邪推だけど。
こういう内容のないような歌では、言葉の内容よりも、繰り返しの部分が歌の魅力の要になってると思うから、繰り返しがあっても変だとは思わない。ウザイとは思うけど。
でも、人麻呂の歌は、鎌足のおっさんの歌とは違う。
もっと何か、言葉以上に歌いたいことがあって歌われた歌だと感じる。
だとすると、その歌いきれない部分を「川」や「ぞ」の繰り返しに託したのだろうか。
「川」に、何があるのだろう。
「天の川」が象徴するのは、織女伝説を考えれば、「いとしい人との逢瀬が滅多にかなわないこと」だろう。
俗な言い方をすれば、ものすごく(何かが)「溜まってる」状態。
しかもこの「川」には、よく「霧」が立ち渡る。
もやもやしている。
何にも見えない。
渡れない。
その「川」に向かって「戀夜多」なのだから、フラストレーションの高まりは、計り知れないものがあるだろう。
もう居ても立っても、「川」が頭から離れない状態。
川川川川川。
悶々々々々。
とすると、「川」とは何なのか。
会えない状況そのもの、と考えると、変である。
だってこの人は、「川」を見て悶々と恋うる夜を過ごしているのだ。
もう完全に、川フェチ状態。
もしかして、女より川が好き?
あるいは、もうダイレクトに、川イコールほとんど女?
【意訳】(またの名を完全な誤訳)
うっすらただよう秋にさそわれ
キミのいない川に行く
夜霧に濡れて
ひんやりと
川辺に佇む
キミの幻
逢うことも抱くことも叶わない
闇に流れる無情なせせらぎ
その川はキミ
すいません。
誰か私を止めてください。
(2005年05月13日)
※過去日記を転載しています。
※別ブログに「腐女子の万葉集」等のタイトルで、ほぼ同内容の記事を掲載していますが、少しづつ、こちらにまとめていくことにしました。