今日も万葉集の巻十二より。二首。
我背子之 朝明形 吉不見 今日間 戀暮鴨 (2841)
わがせこが あさけのすがた よくみずて
けふのあひだを こひくらすかも
朝烏 早勿鳴 吾背子之 旦開之容儀 見者悲毛 (3095)
あさがらす はやくななきそ わがせこが
あさけのすがた みればかなしも
わざわざ取り立てて言う必要もないだろうけど、この二首には、よく似ているところがある。
それは、「わがせこが あさけのすがた(朝の光の中にいるあなたの姿)」を、作者が見たがっていないということ。逢瀬のあと、「あー終わった」とばかりに、身づくろいしてとっとと帰ろうとする男から目をそらしたい。あるいはそんな姿を見ずにすむように、朝なんかこなければいい・・・という感じ。
どちらの作者も女性と思われる。
別に男性でも私はかまわないんだけど、万葉集の中に男性(作者)が男性(恋人)を「背子」と呼んだ事例があるという話は聞いたことがないので、素直に女性ってことでいいでしょう。
「事」が済んだあとの、相手の素っ気無いそぶりに過敏になるという心情は、古代も現代もあまりかわりがないらしい。
「相手と一緒にしみじみと余韻を楽しみたい女と、そんなものに頓着せずにタバコなんか吸いにいっちゃう男」という構図は、よく言われるところである。男にしてみれば、何気ない喫煙行動かもしれないけれど、女はそれを男の不実の兆しと捉えちゃったりする。そこまでいかなくても、次に会えるのはいつなのかとか、自分と一緒でない昼の時間をどう過ごしてしてるのかとか、もしかしたら少し飽きられかけてるのかしら、とか、まあ色々考えるわけである。
そういう思いで頭がグルグルしたまま、切ない昼間をすごしているらしいのが、一首目。
《一首目の、意訳もしくは誤訳》
彼が来るのは、いつも夜。
朝がくれば、帰ってしまう。
彼の居場所に。
ずっと一緒にいてほしいって
言おうかなって思うときもある。
昼も、夜も、ここにいてって。
手を伸ばしてさわれる場所に。私のそばに。
でも、言えない。
言えば彼は、困るはずだから。
眠ったふりをしている私を残して、
帰っていく彼。
朝日の中の後姿は、
涙ににじんで、よく見えなかった。
一日が、また始まる。
ひたすら彼だけをを思い、
彼が来る夜をただ待ち焦がれるだけの
長い長い、一日・・・。
逢瀬のあとの、こういうけなげな情感なんて、ちかごろでは少女漫画でも滅多に見かけない。
ところが、いわゆるボーイズラプ系の作品)に、こうした情感を抱いた人物が、頻繁に登場するのである。万葉の時代から脈々と続いてきた、明け方のせつない女の系譜は、リアルな世界でほとんど実体を失った挙句、BLの世界に継承されていったのかもしれないと、半分本気で思っている。
まあそれはいいとして、二首目のほうは、まだ夜が明けていない。作者は逢瀬の最中である。
《ニ首目の意訳あるいは誤訳》
近所に住んでる馬鹿ガラス。
彼の来ている朝に限って、
やたらと早く、間抜けなバカ声はりあげるのは、
マジでやめてほしいんだってば。
鳥目のくせに、たまには寝坊してみろっつーのよ。
せっかく寝てる彼が起きちゃうじゃない。
できればこのままあたしのベッドで
一生寝かしておきたいぐらいなんだから。
だって、この人が起きて帰っていくところ、
もう見たくない。
つらいから。
この人、気持ちが追い詰められると、永遠の逢瀬を実現するために、カラスの殺戮とか、男に飲ませる睡眠薬の研究とかはじめそうで、ちょっと怖い。
(2005年05月17日)
※過去日記を転載しています。
※別ブログに同内容の記事を掲載していますが、今後こちらにまとめていく予定です。