2005年10月20日
ドラマ「離婚弁護士」を見ながら、天海祐希って、昔お世話になった上司に似てるな~、かっちょいいな~、なんてことをつらつら思っていたら、ゆうべ、その元上司から、ひさびさにメールが来たので、びっくりした。
こういうシンクロ現象は、私の生活のなかでは、わりとよくある。
たまたま思い出していた人から急に連絡があったり、荷物が届いたり、亡くなったという知らせが来たり…
さて、元上司からのメールの内容は、昔書いた論文が電子化されて国立情報学研究所から検索できるようになるんだけど、電子化してもいいかという問い合わせだった。
げげっと思ったが、恥さらしだからやめてくれと断ると、かえって迷惑をかけることになるので、OKの返事を出すことにした。
でもなんか気が進まず、メールの返事をさっさと書かずに、こんなとこに日記を書いて遊んでいる。
論文の内容は、対話の際の、聞き手と話し手の情報の共有具合によってどう表現が変化するかとか、そんな話だったはず。なんせ十五年も前のものだし、研究者としては引退しているから、よく覚えていないのだ。
あのころ、よく思っていたのは、互いによく知っている情報であることが分かっているのに、なぜことさらにそれを口に出して、伝え合わなくてはならないのかということだったように思う。
「いいお天気ですねえ~」
「そうですね~」
「こう、スカッと晴れると、ほんと気持ちいいですよね~」
「ほんとですよねえ」
天気のいいことは、空見りゃ誰だって分かるのに、わざわざ「いいお天気ですねえ~」と伝えたくなるのは、なぜなのか。
そして「気持ちいい」などという、個人的な感覚体験を、「よね~」という形で主張し、共有を確認しあわなければならないのは、なぜなのか。
あのころは、屁理屈だけで決着をつけようと、必死になって幼稚な論をこしらえていたと思う。
いまはもっと違う観点からこの問題を考えることができる。
こうした種類の発話が、会話の冒頭で行われる理由は、コミュニケーション不全に対する漠然とした不安を払う儀式のようなものであると思う。
相撲で言えば、土俵に塩を撒いて清める行為だろうか。
分かり切った情報であるはずの、「いいお天気ですね~」という語りかけに、予期した通りの反応が返ってくることで、相手の脳が自分とほぼ同種のものであるということが確認できる。
それは、最低限、話の通じる相手であるという保証を得ることでもある。
言語にせよ表情やしぐさにせよ、社会的な意味合いを持つ表現というものは、自分以外にそれを理解し使用する他者がいることが前提となって、成立するものである。
自分の周囲にいる人間が、自分とはコミュニケーションに関わるスキルを共有していないと、人は不快を覚えたり、恐怖を感じたりする。
脳の一部(扁桃体という部分)を破壊されたサルは、集団内で適切な振る舞いができなくなって、他猿から相手にされなくなり、結果的にイジメ殺される場合があるという。
自分が集団のなかで、コミュニケーションスキルを共有しない孤独なサルであるならば、それは身の危険に直結する可能性がある。
だから、目の前にいる人間が、自分と同じ感覚処理機能をもち、自分と同じ感情を抱くことのできる人間であるかどうか、確かめずにはいられないのだ、と思う。
(過去日記を転載しています)