きのうは早く寝てしまったので、世界で何が起きたのか、全くなにもしらなかった。
いつもどおり早く起きて、ネットにつないだとたん、すごいことになっているのがわかった。みんながそのことを書いている。ニュースもたくさん流れている。
すぐにテレビをつけた。
マンハッタンの高層ビルに、旅客機が2度激突し、崩壊していく。
そのシーンが、何度も何度も繰り返される。
現場でそれを地上から見ている女性が、叫んでいた。
「人々が……人々が、落ちてくる!」
連呼される「people」という単語が、とてつもなく無惨で物質的に思えた。
吐き気がとまらない。
やがて、あの光景を見て踊る人々がいるということが報道された。世界の断絶をあおる、いやな報道だ。犯人の素性もまだ分かっていないのに。うちのちかくにモスクがある。通ってきている人達は、無事に道を歩けるだろうか。気持ちの悪いことにならないだろうか。不安が募る。
今日は曇っていて遠くのビル街は少しも見えないが、窓の外を鳥がよぎるたびにぞっとしてしまう。
わけがわからない。ずいぶん前からテロの情報はあったようなのに、何もできなかったのだろうか。日本であれが起こらないという保証なんて、あるのだろうか。
どうなるのだろう。
ブッシュ大統領の声明は見た。
どこと戦うつもりなのだろう。
アメリカの軍事評論家はもうすっかりやる気のようで、潜水艦や空母や戦闘機の数を並べ立てている。彼らはハイジャックされた民間機も撃墜するつもりなのだろうか。
今日は息子の施設にいって、医者の診察を受けたり、先生方といろいろ話したりする予定だった。
そのあと、言語療法の先生に会う予約も入れてある。
息子は数日前からパーキンソン病の治療薬を処方されて、飲み始めている。
息子の診断をしてくれた医師と相談の上、試してみることにしたのだ。
おととい、息子は居間に置いているジャングルジムのてっぺんで、器用に仁王立ちになって、覚えたばかりの言葉を叫んだ。
「はげ!」
よりによってなんでこんな言葉を覚えるのかしら、とかなんとか、他愛もない話をしながら、和もうと思っていた。
施設でも病院でも、きっと、テロの話は一切出ないに違いない。
世間に受け入れられない弱い命を守り育てる営みと、あの意志的に行なわれた大量死とのあいだには、どんな言葉でもつながりのつけようがない。空しくなるだけだ。
言葉は空しいのだろうか。
ゆうべは言語学者のチョムスキーが若いころに書いた本を読みながら寝てしまったのだった。ヒトがなぜ、どうやって言葉を話すのか、熱く語られているのを読むのが好ましく思えたからだ。
それにチョムスキーは日本に原爆が落とされたと知ったとき、深く傷つき、落胆したと、朝日新聞に寄せた文章に書いていた。それもあって学生のころに買った「言語と精神」をひっぱりだして、読む気になったのだった。
民族にも国籍にも信教にも無関係に、ヒトならば脳内に等しく持っているはずといわれる、言葉で自在に語る能力(うちの息子にはまだないが)。無限の文章を生成する能力。ヒトの脳が三百万年前に今の形になったあと、二百万年以上もかけて、この力をヒトがみんなで一緒に、じわじわと命を注いで培ってきたのだ。数百万年の成果でも、殺して壊すのは一瞬で済む。言葉の無限はテロや戦争の意志に、どうしても勝てないのだろうか。
何を書いてみても元気なんか出ない。
(2001年9月12日)
※古い日記を改稿して転載しています。