5歳の長女さんが、朝から晩まで「作品」をこしらえては、「ねえっ、みてみて」と言って持ってくる。
一日に五回や十回なら、ほめ方のバリエーションなど考えながら、景気よくほめてやろうとも思うけれども、三十回、四十回、そして五十回を越えるとなると、母親といえども、だんだんくたびれてくる。しかも持ってくる「作品」が、スケッチブックの単なる切れ端を丸めたやつだったり、エンピツで書いた一本の線だったりするから、ほめ言葉のストックも尽きてくる。
でも長女さんにとっては、たとえ鉛筆で線を一本引いただけでも「作品」なのである。
なぜなら、自分で作ったものだから。そして家族のほめる一言で、「作品」の価値は一気に高まり値段が沸騰する、らしい。
「ねえねえ、これ、どう?」
「ん、おもしろいんじゃない」
「んじゃ、おかーちゃんに、あげるからねっ。うれしいでしょっ」
「・・・・ありがとう」
こうして、「本日病気療養につき休業」の看板を掲げたはずの私の枕元には、さまざまな「作品」が、山と積まれることになるのだった。
なかなか気が休まらないことだけれども、娘が倒れて入院するよりは、ずっとマシだから、良しとする。
長女さんとは対照的に、自閉症の息子(3歳)は家族の注意を引こうとすることがない。
息子は、何ができるようになっても得意そうに自慢しないし、人に見せようともしない。
そもそも、何かの感動を共有したり、何かを一緒に見よう、見せようという発想自体が芽生えていないようにも思える。
息子も絵を描くけれど、人に見せる前にサッと消したり、捨てたりしてしまう。ほめられても反応しない。人の思惑など、どうでもよさそうに見える。
表現者として一切の欲がないといえば、まあそうなのだが、その徹底した淡白さが、言葉の出ないことや、他者への無関心の根っこを作っているのだと思うと、病床からガバと起きあがって息子の肩をつかんでゆさぶり、
「すごいんだから、一緒に喜んで!」
と言ってやりたくなってしまう。そして、ぐったり疲れる。
息子の反応のなさ、感動を共有できないさみしさが、心のどこかを削っていくのかもしれない。
長女さんと息子の情緒を足して2で割ることができたなら……などと、できもしないことを考えたくなるのは、たぶん疲れのせいだろう。
(2001年9月5日)
※過去日記を転載しています。