湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

二十年後

朝日新聞は、きのうも身障者の家族の投書を載せていた。

 

障害の子供と
老いる私たち

 

 「肢体不自由児父母の会」の総会に行ってきました。私は23年前、千葉に引越し、子供の就学や手術など同じ悩みを持つ人たちの決断を知りたくて会に入りました。当時5歳の娘は可能性がいっぱいでした。現在、主人60歳、私58歳、娘28歳です。仕事には就いていますが、1人での生活は難しい点もあります。


 私たち夫婦が元気で娘とかかわっていけるのは、あと10年ぐらいではないかと考えています。今まで、問題にぶつかるたびに最善の選択をしてきたつもりです。でも、これからは・・・・。


 総会では、ご自分も車いすの91歳になる理事の方が「理事を辞めさせてください。63歳の息子と静かな時を過ごしたい」と話されました。とてもショックでした。


 23年間で、障害児をめぐる環境は大きく変わりました。父母の会の授産施設も10年かかって今春に開所しました。かつては母親だけの会でしたが、今では多くのお父さんが参加しています。でも、娘の最善の未来は、まだ見えません。


 夫婦の墓は買いました。買えるものは何とか用意できます。でも娘の人生は買えません。主人も定年で、悩みは深まるばかりです。

 

投書の主婦は58歳。私と夫は二十年後にこの方と同じ年齢になる。そして、もしも息子(3歳・重度自閉症)を自立させることに失敗すれば、二十年後、同じように途方にくれている可能性は、非常に高い。

 

息子のことを、はじめて市に相談にいったとき、女性の発達相談員の人に「もう一人子供を産んだら」といわれたことを、改めて思い出す。彼女は何度も何度も、私にいま一度の高齢出産を勧めた。将来、障害のある子を支えて暮らすのに一番力になってくれるのは、やっぱり身内だから、というのが勧める理由だった。

 

もう一人産むとすれば、少なくとも私がいま抱えている持病を全部クリアしなければならない。

 

けれどもそれをクリアしても、もう一人障害児か難病児が生まれるかもしれないというリスクは残るのである。

 

それに、たとえ健常児を産むことができたとしても、その子に上の子二人の人生を背負わせることなど、とてもできないと考えてしまう。

 

息子の最善の未来があるとすれば、やはり自立して人生を生きること以外に考えられない。

墓を買うようにして、我が子の人生のルートを買い与えることはできないし、買おうとしてはならないのだと思う。墓のように行き止まりの人生を我が子に買い与えるなど、私は御免こうむりたい。

 

息子にとっての自立って、なんなのだろう。
そのことを具体的に考える前に、やはり、息子の脳の可能性の極限を見極めるしかないのだと思う。

 

息子は、どこまでやれるだろう。

 

昨日は日中、施設通園、夕方から療育教室だった。この教室で、息子は音声や文字や記号や図形を認知することを教えられ、言葉によって他者とコミュニケーションできることに気づくための下積み修行を続けている。

 

今日は施設通園はお休みで、午後から昨日とは別の療育教室がある。このクラスでは、息子は、自分と似ていて、しかも別の思考や視点を持つ他者というものを、体感し体得することを求められている。ヘレン・ケラーのような人に、生きた象がどんなものであるか、余すところなく教えるかのような作業が、ここでは実に地道に、忍耐強く、続けられている。

 

施設通園では体を思いっきり動かし、知的な遅れは個人レッスンでカバーしていくというやり方で、息子は自閉症児が人の世界に踏み出すときに課される、最初の発達の関門を、じわじわと、なんとかくぐりぬけつつある。けれどもまだ、道は遠い。

 

私は早朝、この日記を書くのだが、息子はたいてい一緒に起き出してきて、私のそばにいる。

 

足元に佇んでディスプレイを見ていることもあれば、椅子によじのぼってきて抱かれているときもある。息子はパソコンが好きなのだと思う。

 

けれどもどうして好きなのかは、まだ分からない。自閉症の子供らしく、分かりやすく反応する機械としてのみ愛着しているのだろうか。それとも、母親が好んで扱う機械だから、親しく感じているのだろうか。

 

息子にとって、家のなかで最も便利な道具である私は、息子の自閉の世界観を変えにくくしている、一つの大きな障壁になっていはいないのだろうか。

 


2001/7/14