ここ数日で、中上健次と鴎外と徳田秋声の短編を一つづつ読んだ。どれも、この夏出た「新潮名作選 百年の文学」というのに入っていたもの。
おっぱいやりながら読んでいる。授乳四回ほどで短編一つ読み終わる。
目の調子がいいと、もうすこし早くいける。悪いときは活字が重なってしまって少しも読めない。こんなときだから気長に読むことにする。
だいぶ育児も落ちついてきたから、また俳句の勉強でもと思ったのに、なんだかへたくそな短歌しか作れなくなっている。俳句におさまらない情のほうを持て余し気味。蕪村関連の本をちょっとだけ読んでがまんしておく。
蕪村終焉の句「しら梅にあくる夜ばかりとなりにけり」について森本哲郎が書いたもの(講談社学術文庫「詩人与謝蕪村の世界」)。
何も知らずに句集で拾い読みしたときから、現実味のない「しら梅」と「~ばかりとなりにけり」という時間の限定、詠嘆の強さが気になって、通常の叙景・写生の句ではないような気がしていたけれど、死に際の苦痛の中で詠んだものと知って納得する部分があった。でもまだ分からないところもある。
つわりの頃に買いだめしてあった子規の著作や評伝なども、まだ読めずに残っている。紙の本の音読機械がほしい。
(1996年8月30日)
※過去日記を転載しています。