湯飲みの横に防水機能のない日記

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読書メモ「女人 吉屋信子」 吉武輝子

 吉武輝子「女人 吉屋信子」文春文庫  

女人 吉屋信子 (文春文庫)

女人 吉屋信子 (文春文庫)

  • 作者:吉武 輝子
  • 発売日: 1986/11/01
  • メディア: 文庫
 

 

「私は女性が好きです」と表明する女性のことばを時々耳にするけれど、私はあまり素直に受けとめることができない。「女性」の一言で取り立てられ一般化されたものの中にある女性の像に、うさんくさいものを感じるからだ。

 

女性が「女性」を好きであると表明するとき、その「女性」は、多かれ少なかれ社会的な特質、それもどちらかというと制約や抑圧によって形作られた性質を帯びたものとして意識されている。言葉は悪いが、どこか逃避的な自己憐憫のにおいもする。そういう意識のされかたで取り立てられた「女性」という枠組みの中には、個々の女性,が人生の中でつちかってきたさまざまな色合いの個性の容れられる余地はない。そして当然のことながら、既定の「女性」としての枠からはずれてしまった女性は、「『女性』が好きな女性」には「好かれない」。

 

吉屋信子という作家は、女性として一人の女性を愛し、名実ともに堂々とその女性を人生の伴侶にした人なのだという。

 

けれども彼女の生涯を描いた「女人 吉屋信子」という本を通読しても、逃避的な不自然さというものは感じられなかった。同性愛者というよりも、彼女のような個性の女性にふさわしい伴侶が、あの時代には、たまたま同性の女性の中にしかいなかったというだけのことなのじゃないかと思う。

 

存命中にはスキャンダラスに取り沙汰されたらしい同性愛のことよりも、彼女と母親との関係のほうが、私には興味深かった。息子ばかりを偏愛し、娘である信子氏の女性としての価値も、社会に認められた才能も、頑なに認めようとしなかった、美貌の母親は、この作家の人生の道筋に計り知れない影響を与えているはずである。もっとも身近な女性によってはめられてしまった「女性」という狭い檻のなかで、彼女は自分らしい自分を殺さないように、せいいっぱい生きたのではないかと思う。

 

 (1996年1月22日)