湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

産後ウツだったんだろうなと後から気づいた・南方熊楠・粘菌

よくわからない疲れ方をしている。疲れているとは思うのだけれど、何がどうなってどのように疲れているのか、よくわからない。いやになっているだけかもしれない。

 

「疲れているからできない」と思うことが増えている。
もともとテレビは見ない方だが最近ますます見なくなった。
マンガもかなり億劫である。パソコンもいじりたくない。掃除や炊事などは言うまでもないけれど、こちらは出来なくなると生活が破滅するからやっている。やってみると、けっこう働けてタフな自分に気づいたりするから何だかおかしい。

 

音楽を聞かないようになっているのに気づいたときは、さすがに「どうしようか」と思ったりした。高熱を出したとき以外に音楽を聞きたくないと思ったことなどないからだ。今はもちろん平熱である。

 

出産後に過労で高熱を出したのを思い出した。ほんとうに「疲れ果てる」状態になれば、私は全く動けなくなる。いまはまだ普通に動ける。心のどこかで「疲れるかもしれないこと」に対して頑丈な予防線を張っているのだと思う。
 
疲れ果てると生活に困るけれど、予防線の張りすぎで生活が疲労色に染まっていてはしかたがない。中庸ということを体得すべき年齢の、個人的上限が来ているのだろうと、しみじみ思う。休みながら、少し何かしてみよう。

 

水木しげるの「猫楠」を読んだ。飼い猫が見聞きした南方熊楠の物語。

 

 


この常軌を逸した明治の学者に多少の興味を持つきっかけになったのは粘菌だった。

 

去年の夏、近所のスーパーで粘菌図鑑を売っていた。一目見て欲しいと思ったのだけれど、値段が少々高かったのと、スーパーで主婦が粘菌図鑑を買わなければならない理由というのを自分の中でうまく説明出来なかったから、その日は買わずに家に帰った。次の日も図鑑を見にスーパーに行った。その次の日も、次の次の日も見に行った。数日休んでまた見に行ったら、図鑑は売れてなくなっていた。

 

自分以外にそんなものを買うひとがスーパーに来るとは思わなかった迂闊さを私はずいぶん後悔した。

 

それからだいぶたって新宿紀伊国屋で同じ図鑑を見つけたときには迷わずに買い求めた。異様に冗舌なアベックが図鑑売場の前を占拠していて目的の図鑑に手が届かず、蹴飛ばしてやろうかと五回くらい思ったことを覚えているけれどそんなことはどうでもよい。以来、なんだかうまく説明できないけれどいつまでも消えずに動いている気持ちや考えのようなものを、粘菌みたいな気持ちと呼ぶことにしている。

 

 

 

 

(1996年11月25日)
※過去日記を転載しています。