湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

ドラマ「風よあらしよ」

 

ゆうべは、末っ子と一緒に伊藤野枝のドラマ「風よあらしよ」(全3話)の最終回を見た。

 

風よあらしよ - NHK

 

全編を通じて思ったのは、実在の人物と役者さんたちが、恐いほど似ていたということだ。

 

大杉栄永山瑛太)と伊藤野枝吉高由里子)は、生前の二人の写真からそのまま抜け出てきたかのようだったし、四角関係がこじれて大杉を刺した神近市子(美波)も、本人の、目鼻立ちのくっきりとした、知的で性格のキツそうな顔立ちが、ネットで見かける御本人の写真の雰囲気によく似ていて、きっとこの通りの人だったのだろうと思えた。

 

甘粕正彦音尾琢真)も、Wikipediaなどでみる写真にそっくりだった。

 

どの人物も、衣装や髪型などの細部まで、残された写真などの資料をもとに、できる限り当時の姿に近づくように再現されたのかもしれない。

 

いまから100年前の、大正のあの時代の空気をリアルに感じ取りたかったので、ドラマでの再現率の高さはとてもありがたかった。

 

末っ子の受験対策(日本史)の一環として見たので、主な人物像や事件名を押さえながら見ることも怠らなかった。

 

まず、伊藤野枝

 

この人は、生まれるのが50年くらい早すぎたと思う。

平成とまでは言わないけど、せめて昭和の戦後生まれだったなら、あの破天荒な性格のままだったとしても、もう少し長生きできたのではなかろうか。

 

野枝は自分らしく自由に生きようとして、最初の夫から逃げたものの、その後は辻潤に頼って生きるしかなく、辻潤と考えが相容れなくなってからは、思想的に共感した大杉栄の元に走る。

 

見かけ上はほとんど乱婚のような振る舞いなので、当時も世間に散々叩かれたようだし、今の時代でも好意的には受け入れられない生き方ではある。

 

けれども、女性が経済的にも思想的にも自分一人の力で立つということが難しい時代にあっては、支えてくれる実家もお金もない、野枝のような女性は、自分の思想に理解のある男性を探し出して、男女関係を結ぶ以外に、自分を貫く方法がなかったのかもしれない。

 

ただ、ドラマの中の野枝には打算的な様子は一切感じられなかった。彼女にとっては、思想的に共鳴する同志である男性と肉体的に結ばれるのは、ごく自然なことだったのかもしれない。

 

伊藤野枝は、辻潤との間に息子二人、大杉栄との間に息子一人、娘三人を持っている。

 

たった28年の生涯で、7人の子を産みながら、政治運動や雑誌出版に奔走し、家事の合間に原稿を書きまくり…

 

避妊の難しい時代だったにしても、精神的にも肉体的にも、途轍もなくタフな女性だったのは間違いない。

 

今の時代だったら、どうだろうか。

 

精神的、思想的に独立して自由になりたい女性は、まず7回も出産はしないと思う。

 

むしろ結婚や育児の負担を避けて、自力でバリバリにキャリアを積みそうな気がする。

 

もっとも、私などは既に古い側の人間だろうから、若い世代がどう考えるかはわからない。

 

なにはともあれ、伊藤野枝は、タフな女性として記憶に深く刷り込まれた。

 

 

それから、ダダイスト辻潤稲垣吾郎)。

 

上野高等女学校で伊藤野枝に英語を教えていた縁で野枝に慕われ、彼女に雑誌「青鞜」を紹介したことで、本人と野枝の人生が激変することになる。

 

最初のうちは、辻潤は野枝の良き理解者だった。

けれども、野枝との関係を糾弾されたことを理由に教師の仕事を辞めてからは、縁側で尺八を吹くだけの粗大ゴミに変貌し、子どもが生まれても何もせず、斎藤社で活躍する野枝をやっかむような態度すら見せるようになる。

 

既成の秩序を破壊するというダダイズムを標榜するなら、尺八を逆から吹くとか、せめて吸い込んで音を出すくらいの気概を見せればいいものを。

 

Wikipediaによると、辻潤ダダイズムに出会ったのは、野枝に逃げられたあとだったようだけれど、それ以前からアナキストと多く知り合い、既存の価値観への叛逆精神を培ってはいたようだ。

 

ドラマのなかの辻潤にとっては、同居する母と野枝に家のことを丸投げして、無責任な態度を貫くことが、叛逆活動だったようだ。

 

末っ子曰く、

 

「売れないバンドマンみたいな男」

「結婚相手としてはゴミくず」

 

芸術家としては、多くの作家に影響を与え、宮沢賢治を見出して世に知らしめるという功績を残した人だけれども、家庭人としてゴミくずだったのは間違いない。

 

そして、大杉栄

 

アナキスト無政府主義者として警察に追われ、自由恋愛論者として複数の女性と関係を持ち、女性に貢がせ、首を刺され、最後は甘粕正彦に殺された人。

 

末っ子曰く、

 

「とりあえず、こいつの自由恋愛主義はゴミ」

伊藤野枝とは相性が良かったというか、似たもの同士だったのでは?」

「家事と育児に参加していた点においては、辻潤よりはマシ」

 

家庭人としては、ダダイストよりアナキストのほうが良質だったようだ。

 

ドラマでは、大杉栄は谷中村の鉱毒事件に巻き込まれた村民の悲惨さを知ったことがきっかけで、のちに無政府主義を抱くようになったと語られていた。

 

ドラマの中の大杉栄は、関東大震災後の暴動を扇動したという濡れ衣を着せられて、野枝や甥っ子と一緒に、甘粕正彦に捕まっていた。

 

けれども大杉栄には、テロを起こす意図などなく、震災を政府転覆の好機だと考える同志たちを止めて、被災した貧しい人たちに食事や衣類を振る舞う活動をしていた。

 

そういう様子を見ていると、大杉栄がたとえば殺されなかったとしてと、アナキストとしての政治運動をやり通していくことができたようには思えない。

 

そもそも、個人の自由を保証するアナキズムを全うすることと、20世紀前半での巨大な国家の成立維持が、両立できるような気がしない。政治には疎いのでよく分からないけど、たとえ発想の原点が自国の貧しい民衆を救うということだったとしても、他国との経済や軍事が絡んだ軋轢を意識した時点で、何をどうしても、国家社会主義とかファシズムみたいなことになってしまうのじゃなかろうか。

 

ドラマの大杉栄は、かつて谷中村の鉱毒事件の悲惨な村民たちを助けたいと願ったときの、幼稚なセンチメンタリズムを自分のなかに取り戻したいと言っていた。本当にそういう人だったのだとしたら、この人がアナキズム運動の立役者になってしまったのは、不幸だったと思う。政治とセンチメンタリズムほど、相性の悪いものはないだろうから。

 

中途半端になったけど、そろそろ次の動画コンテンツを見る時間になったので、ここまでにしておく。

 

 

 

ねこたま日記

こんにちは。

 

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朝から豪雨、その後快晴と強風。

落ち着かない天候だ。

 

今日は敬老の日

息子は福祉サービスの遠足参加で朝から外出。

 

末っ子の高校は本日平常授業だったのだけど、暴風雨のせいで学校にたどり着けなかった子もいたらしい。

 

台風を予期して先週のうちにzoom授業を申し込んでおいた末っ子は、ある意味クラスの中での「勝ち組」認定されたようで、カバンの中までびしょ濡れになって行軍していた友人たちからLINEで罵詈雑言を浴びせられたとか。(´・ω・`)

 

 

(_ _).。o○

 

咳は徐々に軽くなっている。

コロナの後遺症がでないかと心配だったけど、以前かかったときのような酷い動悸や息切れはない。

 

ただ、昨日の夜、とんでもなくお腹が痛くなって、4時間ほど煩悶した。末っ子も昼間に同じようなことになっていたので、何か関係があるかもしれない。

 

他の家族は、とくに問題なさそうだ。

 

暴風雨で窓を閉め切っていたら、なんだか部屋がかび臭くなったといって、長女さんが念入りに掃除をして、布団を乾燥機にかけてくれた。

 

台風が行ってしまったら、十分に換気しよう。

 

 

ねこたま日記

こんにちは。

 

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台風が近づいているせいだろうか、昼間は雷が怖いほど鳴っていた。雨も強かったけど、今は小降りになっている。

 

身体を動かすと咳が出る。

出始めてからおさまるまでの時間が短くなってきているので、回復はしているのだと思う。

 

今日は末っ子ともども、教会学校をお休みした。

たぶんもうコロナは陰性になっているだろうけど、酷い咳の出る状態で、人の集まるところに行くのは避けるべきだと思った。来週には行けるといいな。

 

昨日の夜は、ドラマ「大仏開眼」の後編を末っ子と一緒に鑑賞(NHKオンデマンド)。

 

日本史の授業では人物像をつかみにくかった、吉備真備藤原仲麻呂が、しっかり脳に焼き付けられる作品だった。

 

 

 

末っ子が、今度は奈良後期から平安初期のドラマが見たいというので、永井路子の「王朝序曲」あたりが映像化されていないかと思って探してみたけど、残念ながら見つからなかった。

 

「王朝序曲」は末っ子が生まれたころに読んだ覚えがある。平安京に遷都したあたりの、人間関係がドロドロな上に血生臭いドラマだった。

 

 

面白いんだけど、長いお話なので、受験生には勧めにくい。

 

YouTubeで何か動画がないか、探してみよう。

 

 

 

天平文化の復習(1)「大仏開眼」

末っ子の日本史受験対策という名目で、NHKアーカイブスなどのコンテンツをKindle fireで鑑賞する日々が続いている。

 

 

私も末っ子もADHDなので、長時間テレビ番組を見ようとしても、あっという間(ほぼ数分以内)に飽きてしまって見続けられない、というか、画面の前に長く座っていられないという問題を抱えているのだけど、二人で盛大にツッコミを入れながら見ていると、飽きがこないので最後まで見ることができる。

 

もっとも末っ子は手元の端末で気になったことを次々と調べながら見ているし、私の方は食べたり飲んだり、余計なことまでしゃべったりして間を持たせているのだけど。

 

昨夜は大仏開眼というNHKドラマの前編を見た。

 

 

天平の頃の奈良の都を舞台に、橘諸兄をはじめとする古い貴族たちと、藤原氏との軋轢に巻き込まれながら生きる、吉備真備の人生の物語。

 

ドラマの語り部は、吉備真備の妹のユリという女性なのだけど、Wikipediaには、ユリ(吉備由利)は吉備真備の娘と書いてあった。どっちだったんだろう。

 

養老元年(717年)、遣唐使として唐に渡った吉備真備は、天平7年(735年)、胡散臭い僧の玄昉(げんぼう)とともに、嵐で難破しそうになりながらも、無事に帰国を果たす。

 

遭難の危機に怯え惑う吉備真備は、自分が乗っている船が沈むはずがないと言う玄昉の無根拠な自信に支えられて、嵐の夜を乗り越えたのだけど、これが二人の腐れ縁の始まりだった。

 

で、いつもの「山川日本史一問一答」。

 

‎「山川一問一答日本史」をApp Storeで

【問】

 

遣唐使に従って唐に留学し、帰国後、橘諸兄政権で大きな地位を占めた人物を二人あげよ。

 

答…吉備真備・玄昉

 

胡散臭い玄昉も、真備と一緒に出世するらしい。

 

それはともかく、どうもこの玄昉の胡散臭さに見覚えがあると思ったら、「鎌倉殿の13人」の文覚と同じ、市川猿之助だった。なんだか玄昉が輪廻転生して文覚になったみたいで、ちょっと面白い。

 

(_ _).。o○

 

ドラマの真備は、まだ学生のような頼りない雰囲気を残していて、かなり若く見えたけれども、実際には帰国した時点で40歳くらいだったようだ。

 

18年間の留学生活で、史書や天文、音楽、兵学など、さまざまな分野の深い知識を身につけ、貴重な品々をも持ち帰った真備は、朝廷に高く評価され、低い身分から一気に昇進することになる。

 

真備はあまり出世には興味がなかったらしく、自身の境遇の変化に戸惑って及び腰になるけれども、権力者たちは有能な彼を放ってはおかなかった。

 

ドラマでは、吉備真備はまず藤原仲麻呂藤原武智麻呂の息子、不比等の孫)に目をつけられ、家に押しかけられていた。

 

その後、仲麻呂によって光明皇后葛城王橘諸兄)といった有力者たちに強引に引き合わされて、どちらからも気に入られてしまう。

 

さらに、光明皇后に願われて、彼女の娘の阿部内親王(のちの孝謙天皇)のしつけを頼まれて、家庭教師をすることになってしまう。

 

我儘娘だった内親王は、自分に対して断固たる態度で叱りつける真備に度肝を抜かれたものの、彼の筋の通った考え方に信頼を寄せ、やがて素直に思いのうちを語るようになっていく。

 

藤原不比等の息子たち(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は、吉備真備が帰国する6年前の729年に、目障りな存在だった長屋王に謀叛の濡れ衣を着せて一族を自害に追い込み(長屋王の変)、自分たちの妹である光明子聖武天皇の皇后に立てたことで、強い権力を握っていた。

 

権力を自分たちで掌握して、唐のような中央集権国家を作りたい藤原四兄弟にとって、橘諸兄のように皇族から臣籍降下した高位貴族や、大伴家持のような有力豪族は、権力を分散させる邪魔物でしかなく、どうにかして排除したい存在だったようだ。

 

父の藤原武智麻呂の意を受けた仲麻呂は、才能ある吉備真備を自分の手駒にしようとして、あの手この手で勧誘するものの、吉備真備はうまくかわして、誘いに乗ろうとしない。

 

一方、吉備真備と一緒に帰国した玄昉は、物欲色欲丸出しで権力に擦り寄ろうとしていた。

 

当時の都は地震や飢饉に襲われた影響で貧民が道に溢れ、行き倒れて死ぬ者も少なくなかった。

 

世の中のひどい有様を見て、政治の仕組みを変えなくてはならないと思いつめる吉備真備に対して、玄昉は、巨万の富を投じて巨大な盧舎那仏を建立すれば人々は救われると断言する。

 

学問によって合理的思考を身につけた吉備真備にとって、玄昉の主張は妄言としか思えなかった。

 

けれども真備には、かつて唐からの帰国途中に嵐に遭遇した夜に、玄昉の全く根拠のない自信に一縷の望みを見出し、文字通り全力で玄昉にしがみついて船が難破する恐怖を乗り越えるという「黒歴史」があった。

 

もしかしたら、筋の通らない力によって人が救われることもあるのもしれないと思ったのかどうかは分からないけれども、真備は橘諸兄に玄昉を紹介するという愚かな選択をしてしまう。

 

聖武天皇の母である藤原宮子は、聖武天皇を産んですぐに精神的な病を患い、意思疎通も不可能な状態となったために、36年間も息子に会うことがなかったという。

 

ドラマのなかの宮子は、幻の蝿にまとわりつかれて苦しみ、終日その蝿を払い続けていて、人も話すことも、部屋の外に出て息子の聖武天皇に会うこともできなかったという。

 

橘諸兄は、宮子の治療のために、玄昉を宮中に派遣する。

 

ドラマでは、吉備真備橘諸兄と関係を深めるのを面白く思わなかった藤原武智麻呂と、その息子の仲麻呂は、インチキ臭い玄昉を宮子に引き合わせ、母を思う聖武天皇を振り回したとして、吉備真備を厳しく糾弾し、橘諸兄を失脚させようとする。

 

ところが玄昉は、幻の蝿を手で捕獲して外に逃して見せたことで宮子の心を引きつけ、正気を取り戻させることに成功してしまう。

 

宮子は数十年ぶりに聖武天皇と対面し、玄昉は天皇に篤く信頼されるようになる。

 

藤原四兄弟仲麻呂は、さぞかし面白くなかったことだろう。

 

けれども藤原氏橘諸兄の権力闘争は、思わぬ形で決着することになる。

 

天平9年(737年)、都に天然痘が蔓延し、民衆からも貴族からも多くの死者が出る。

 

藤原四兄弟は全員死亡。

出仕できる公卿がほとんどいなくなってしまったため、必然的に橘諸兄が政治の中心となった。

 

橘諸兄は、吉備真備と玄昉をブレインとして聖武天皇を支える体制を作ったようだけれども、玄昉は人柄に難がありすぎるということで、だいぶ批判されたらしい。

 

Wikipediaの玄昉のページには、彼についての怪しい噂がいろいろ紹介されている。

 

生臭いところでは、聖武天皇の生母の宮子や光明皇后との密通の話があるけれど、ドラマでも、宮子と玄昉の関係は、かなり際どい感じで演じられていた。

 

その他、玄昉の死体が九州から空を飛んで都にやってきて、藤原氏の氏寺にバラバラに落下したとか、藤原広嗣の怨霊に殺されたらしいとか、空中から手が出てきて玄昉を連れ去り、頭だけ落としてよこしたとか、ろくでもない話が伝承されているようだ。

 

何をやったのかは分からないけど、よっぽど藤原氏の恨みを買ったのだろうというのは察せられる。

 

ドラマでは、橘諸兄に相手にされなくなった玄昉が、仲麻呂の館で酒と女に溺れる暮らしを送りながら、巨大盧舎那仏を建造する夢を追い続けていた。

 

一方、合理主義的な考えから仏像建立に否定的だった吉備真備は、行基という僧侶と出会ったことや、聖武天皇の仏像への思いを聞いたことから、少しずつ考えを変えていきつつあった。

 

 

続く。

 

 

 

 

ねこたま日記

こんにちは。

 

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コロナの療養期間が終わって五日ほどたつけど、まだ咳が止まらない。

 

じっとしていればほとんど出ないけど、ちょっと立ち働くと、ゲホゴホする。

 

保健所の人は、咳はかなり長く残る人が多いと言っていた。まだ病院の咳止めがあるけど、これが無くなったら病院に相談しよう。

 

他の家族も、息子以外はまだぐったりしている。

時間がかかりそうだ。

 

そういえば、息子は予防接種を一度も受けていないけど、前回に続いて今回も熱がほとんど出ず、軽症で済んだ。咳は少し出ていたけど、も受け収まっている。タフな人だ。

 

息子のように重度の知的障害があるひとの中には、コロナで重症になった事例もきっとあると思う。

 

息子の場合、家族の付き添いがなければ、入院もホテル療養も不可能だ。2度の感染を軽症で乗り越えてくれたのは、幸運としか言いようがない。

 

(_ _).。o○

 

なんだか猛烈な台風が近づいているそうで、末っ子は週明けのzoom授業を申し込んでいた。亭主も来週から仕事が始まる。何事もありませんように。

 

(_ _).。o○

 

数日前に、末っ子の学年の社会科見学があった。

といっても、東京都心に現地集合の現地解散で、お昼は各自そのへんで外食して済ますという、今どきの高校生仕様の遠足だから、気楽なものだ。

 

と思っていたのだけど、当日朝、電車が事故で止まってしまって、半分近くの生徒が集合時間までにたどり着けなかったんだとか。修学旅行も結局中止になったし、とことん行事にめぐまれない学年だ。

 

社会科見学では、平和教育として、東京大空襲の経験者の方から、非常に痛ましいお話を、途中から聞いたとのこと。

 

私の子供のころは、親世代も学校の先生方も戦争経験者だったから、日常のなかで、いくらでも話を聞く機会があった。中学のときに教わった先生が、仙台空襲(1945年7月10日)を屋根の上で眺めていたという、危ないお話をしてくれたのを思い出したので、どうしていらっしゃるかなと思ってネット検索してみたら、数年前に亡くなったという記事が見つかった。

 

親世代から戦争体験を聞いた世代ですら、既に還暦に到達しているのだから、自分のこととして直接話せる日本人は、ますます減っていくのだろう。今後それが増えるなんていうことは、絶対あってほしくない。天災だけでたくさんだ。