体が痛いのが、当たり前になってしまっている。
いちいち「痛い痛い」と騒ぐ気にもならないほど、毎日普通に痛い。
でも、不思議なほど痛みを感じない時間帯がある。
たとえば、絵画教室で絵を描いているとき。
はっきりいって、絵を描くのは苦手だ。
なのに、三時間近く座りっぱなしで、悩みながらデッサンしたり、絵筆を握って唸ったりしても、それで余計に体が痛くなるということがない。むしろ、痛みが消えてしまう。
絵を描いている間は、描こうとするものと描いている自分の絵をひたすら見ている。見ないと描けないから当たり前だけど、その「見る」「描く」ということをしている間、停止している脳の機能がいくつかある。
言葉で考えるということ。
とりとめもなく記憶を反芻すること。
そして、それらに対して感情の火花を無数に散らかすこと。
ひと言でまとめるなら、雑念である。
普段の私の頭の中は、猛烈に雑念が飛び交っている。
読んだり書いたりしていないときは、常に言葉で考えたり、いろんな記憶をほじくり返したりしている。
はたからみれば何もしていないようなのに(実際何もしていない)、本人は脳内の騒動のせいで、常にくたびれている。そういう雑念の火花が楽しいときもあるけれど、ネガティブな方向に突っ込んでいくと、とめどもなくしんどくなる。
少しばかり読みかじったマインドフルネスの本によると、そういう雑念がフル稼動しているときには、脳のワーキングメモリーがオーバーヒートするほど働いているらしい。
人の体はムチャな使い方を続けていれば壊れてしまう。暴飲暴食は胃腸や肝臓を壊すし、重い物をむりやり担いでいれば腰がやられる。
脳だってたぶん一緒だ。
絶え間なく雑念を高速回転させていたら、前頭前野にあるというワーキングメモリーだって、息切れしてしまうだろう。
そのワーキングメモリーを休ませるには、いま、目の前にある現実に傾注することが、一番有効なのだという。
風の音を微に入り細にわたり聞き取ろうとしたり、水道の水がどんなふうにつめたいのかを感じたり。
目の前にある、一粒のレーズンが、どんな色と形をしていて、どんな匂いで、口にいれたらどんな感触で、舌に感じる味がどんなであるのか。
息を吸ったら、鼻や喉にどんな感触があり、胸や肩の筋肉と骨がどう動くのか。
そういうリアルタイムの現実を五感で受け止めている間は、ワーキングメモリーはお休みするのだそうだ。
絵画教室で絵を描いているあいだは、たしかに私の頭のなかはだいぶ静かだ。
痛みが消えるのは、それと関係があるのかもしれない。
なにはともあれ明日は通院。忘れないようにしないと。
( _ _ ).。o○
ハルオサンのマンガ「業者から見た空き家問題」が、ほんとうに怖かった。
「困ったこと」によって生じるシワは、関わった人々が全力で自分よりも弱いほうへと押しつけていく。そして、多くの人々によってもてあまされたシワは、どんどん深さと数を増して、しまいには津波のようになって、一番立場の弱い「最後の人」に襲いかかる。
こういう破滅的なシワ寄せが起きないような、世の中の仕組みが必要なのだろうと想像するけれども、いろんな理由や都合で、問題が見えにくくなっているのだろう。
誰もが見たいと思わないことは、なかったことになりやすい。
自分だって知らないうちに、そういうシワ寄せのリレーに荷担してしまっているかもしれない。それが、怖い。