湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

いろいろ

村上春樹

村上春樹が、実父との葛藤を文章にしたのだそうだ。(「猫を棄てる」文藝春秋)。

 

文藝春秋2019年5月号

文藝春秋2019年5月号

 

 

「文藝春秋」Kindle版で900円か。読みたい記事ばかりでもないし……ちょっと考えよう。

 

 
ありあまる


ももしきやふるき軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり 順徳院


百人一首の、百首目の歌。

「ももしき」は宮中、「しのぶ」は植物の「シノブ」と、動詞の「しのぶ」(思い慕う・こらえる)の両方の意味があるんだろうなというのは、なんとなく分かる。


でも、「軒端のしのぶにもなほあまりある昔」が、よくわからない。

いや、宮中の古い建物の屋根のはじっこに、シダ類が生えている光景を見ていて引き起こされる、過ぎ去りし日々の記憶に関係した、なんらかの感情が「ありあまる」のだろうというのは想像されるのだけども、順徳院や藤原定家ら、同時代の人々が共有していたであろう、「昔」のイメージは、私には分からない。情報がないのだ。


順徳院の見ていた「軒端のしのぶ」は、ほんの数本、ぴろーんと生えている程度だったろうか。
それとも、緑の噴水のように、わさわさぶわーっと、猛々しく生い茂っていたのだろうか。


なんとなく、猛々しく生い茂っていたほうのような気がする。だって、「ありあまる」ほどの記憶に襲われるのだから。


いまの京都御所の清涼殿の屋根に、シノブの姿は見えない。

平安京内裏清涼殿跡地には、瓦屋根のお宅と植木鉢と電柱が見える。シノブはなさそうだ。

 

ja.wikipedia.org

 

 

ありて、ある

 

百人一首とは何の関係もないけれど、「ありあまる」ということばを見ていて、「創世記」の「出エジプト記」に連想が飛んだ。


エジプト脱出前に、モーセが神と遭遇し、神に名前をたずねたところ、「私は、あってあるものだ」と答えたという箇所である。

 

モーセにいひたまひけるは我は有て在る者なり又いひたまひけるは汝かくイスラエルの子孫にいふべし我有といふ者我を汝らに遣したまふと

(出エジプト記 第三章14節 文語訳)

 

神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

(口語訳)

 

 

不思議な、名乗りである。

英語では、この部分「I am that I am.」と翻訳されているそうだ。


英訳を見ると、「ありて、ある」というよりも、「わたしは、わたしである」という感じに思える。


この「ありて、ある」という神は、モーセに指示して、エジプトで虐げられていたユダヤ人たちを脱出させ、約束の地に導くのだけれど、その過程で引き起こされたことは、エジプト人にとってもユダヤ人にとっても、災厄以外のなにものでもない。

 

なにしろ、エジプトのファラオ(パロ)がユダヤ人の出国を拒絶するたびに、国中がカエルだらけになったり、虻だらけになったり、疫病が蔓延したり、ナイル川が腐敗したり、恐ろしく大粒の雹で国中の作物や家畜が破壊されたり、さんざんなことになるのだ。

しかもこのファラオ、災厄に見舞われると、ますますユダヤ人に暴政をふるうのだけど、ファラオのかたくなな拒絶の態度も含めて、すべてのことが「ありて、ある」という存在の意向なのだという。

しかし、わたしはパロの心をかたくなにするので、わたしのしるしと不思議をエジプトの国に多く行っても、パロはあなたがたの言うことを聞かないであろう。

 (出エジプト記 第七章三節~四節)


結局のところ、民族の独立をめざした紛争は、凄惨極まりないものになるしかないということを、「ありて、ある」神はモーセを通じて示したのじゃないかと思わなくもない。


たぶんこの神は、現代でも、同じ「ありかた」をしておられる。

 

無職の専業主婦?


Twitterで、へんなタグをみかけた。


「#無職の専業主婦」


怒りのツイートがたくさん流れていて、なんのこっちゃと思ったら、発端は、この記事らしい。

 

www.moneypost.jp

 

一部引用。

 

 令和を迎え年金改悪の議論が始まっている。現在、夫の厚生年金に加入し、年金保険料を支払わずに基礎年金をもらうことができる「第3号被保険者」の妻は約870万人いる。

 第3号については共稼ぎの妻や働く独身女性などから「保険料を負担せずに年金受給は不公平」という不満が根強くあり、政府は男女共同参画基本計画で〈第3号被保険者を縮小していく〉と閣議決定し、国策として妻たちからなんとかして保険料を徴収する作戦を進めている。

 厚生年金の加入要件を広げることで仕事を持つパート妻をどんどん加入させているのはその一環だ。3年前の年金法改正で厚生年金の適用要件が大幅に緩和され、わずか1年で約37万人が新たに加入している。

 そうして篩(ふるい)に掛けていけば、最後は純粋に無職の専業主婦が残る。厚労省社会保険審議会では、無職の主婦から保険料を取る方法も検討してきた。

「第3号を廃止して妻に国民年金保険料を払ってもらう案、妻には基礎年金を半額だけ支給する案、夫の厚生年金保険料に妻の保険料を加算して徴収する案などがあがっている」(厚労省関係者)

 令和の改革でいよいよ「3号廃止」へと議論が進む可能性が高い。

週刊ポスト2019年5月3・10日号

 

 

しかしこの記事は、厚労省の人が「唐突だな、としか……」というほど、根拠に乏しいものであったらしい。

 

mainichi.jp


少し引用。

 

 

 (前略)だが、そもそも前提として「年金半減」は検討されているのか。厚生労働省年金局事業管理課に問い合わせると「唐突だな、としか……。なぜ今こんな記事が出るのか分かりませんね」と、電話口の男性職員は困惑した口調で話した。

 ただ、第3号被保険者についての議論が記録された資料はあるという。厚労省社会保障審議会年金部会の2015年1月21日の議事録だ。ここで「3号縮小」の方針が決まり、15年12月に閣議決定された第4次男女共同参画基本計画には「第3号被保険者を縮小していく方向で検討を進める」と書き込まれた。

「働く女性の声を根拠に議論はしていない」
 部会の議事録をよく読むと、ポストの記事に重なる表現や内容が見られる。

 委員による第3号被保険者制度が「不公平」だとの指摘や、「最後に純粋な無就業の専業主婦(夫)が3号として残る」「ここに対しては、夫婦年金分割の考え方を進めるべきだという意見、配偶者の所得によって保険料負担を求める意見、3号は免除者と同じ扱いとして半額の給付を保障し…」などの意見が記されているのだ。

 ただ、あくまでも委員の意見であって部会の結論ではない。しかも、共稼ぎの妻や働く独身女性などから不満が出ているとの記述もない。(後略)

 

 

あほらし。(´・ω・`)

 

ちなみに、私が「#無職の専業主婦」にならないためには、最低でも次の三つが必須だった。


・小児慢性特定疾病の幼児を、寛解後の自宅療養機関も含めて預かってくれる保育園・学童保育

・重度の知的障害を持つ幼児を預かってくれる保育園・学童保育

ADHD、広汎性発達障害児を受け入れる保育園・学童保育


二十年前は、不可能だった。

いまでもたぶん無理だと思う。

自治体の情報を見ると、保育園・保育室の空きはあるけど、難病・障害児枠は記載されていない。

 

 

それにしても、たった半世紀くらい前の日本では、「女が結婚してからも働くなんて」という価値観が、それなりに根強かった。三十年ほど前には「家庭に入る女に四年制大学はいらない。高卒か短大卒で十分」という価値観も、まだ残存していた。

 

それがいまでは、「#無職の専業主婦」なんて(週刊誌の記者に)言われて、年金制度のお荷物扱いとは。