湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

高瀬舟

 

数日前に、森鴎外の「高瀬舟」を読んだ。

たぶん、再読だと思うけれども、読んだとすれば四十年以上も前のはずで、内容はほとんど忘れていた。

森鴎外の作品は、読後の心に「もにょり」とするものが残ることが多い気がする。
というほどたくさんの作品の記憶がないのが悲しいけれども、かろうじて記憶に残っている数作は、私の中では全て「もにょり」系である。

 

山椒大夫
阿部一族
舞姫
かのように


たぶん森鴎外にとって、自分をとりかこむ現実や、あたりまえとされているモラルのいろいろが、通常攻撃が一切効かないタイプの巨大スライムみたいに、もにょりの巨魁みたいなものだったのかもしれない、などと想像してみる。


いまは中学三年の国語の教科書に「高瀬舟」が丸ごと掲載されているのだとか。
自分のころは「舞姫」だったような気がするけれど、あれは高校の現代国語だったろうか。

 

 「高瀬舟」は、青空文庫版が無料で読める。

 

高瀬舟

高瀬舟

 

 

 

 

この短編小説の投げかけているテーマは、ものすごく重い。

 

まず、「安楽死」について。
罪人として護送されている喜助は、自殺しようとして喉を切った弟に懇願され、喉に刺さった刃物を抜いてすみやかに死なせる手伝いをしたことで、有罪となった。当時の医療では、助かる見込みの全くなかった弟を、本人の望みのままに死なせることが、罪であるのかどうか。


次に、脱出の見込みのない貧困の問題。
喜助と弟は、幼いころに親を失っていた。幼い頃は近隣の人々に助けられて、なんとか暮らしていたけれど、大人になってからは、どんなに真面目に働いても生活が苦しく、借金の返済に追われる日々だった。そんな中で弟が病気になり、生活のすべてが喜助にかかってくることになってしまう。弟はそんな状況に絶望し、兄の負担になりつづけることを心苦し思うあまりに、自殺を決行してしまったのだ。

貧困や病気がなければ、弟は自殺などしなかっただろうし、喜助も罪を問われることはなかったはずだ。
けれども、喜助の暮らす社会には、そうした庶民を救済する仕組みはなかった。


喜助は罪人として島流しの身となったけれど、なぜかそのことに安らいでいて、幸せそうですらある。
弟を失い、罪を得たことによって、希望の見えない生活苦と不安から解放されてしまったからである。
その上暮らす場所と資金まで与えられて、生まれてはじめて、人として満たされて生きることを許されたと感じているという。

同じ高瀬舟に乗船している庄兵衛は、喜助の身の上と、自らの身の上を引き比べるのだけれども、ごくあたりまえの家庭を持ち、仕事を得て暮らしている自分のほうが、不安と不満に満ちているように思えてしまう。


はたして人間の幸福とは、何であるのか。


なんてことを、中学の国語で問われるというのが、なんだかすごい。

でも義務教育の終わりの年に、こういうことを問うというのは、考えてみたら当然のことなのかもしれない。
このまま社会に出ていく生徒もいるのだろうから。

 

 

末っ子はゴールデンウイークの宿題で、この「高瀬舟」の読書感想文を書かなくてはならないそうだ。どんなことを書くのか、ちょっと楽しみ。