やすらぎの十字架
ここのところ、息子(重度知的障害のある自閉症者)が、精神的安定を崩すことが多い。
ちょいちょい、軽いパニックを起こす。
理由はわからない。季節の変わり目だからかもしれない。
それで今朝は、一緒にバッハの「マタイ受難曲」を聞いている。
息子はバッハの曲を乳幼児期から好んでいた。
どうしてだか、気持ちが落ち着くらしい。
マタイ受難曲の歌詞は以前に対訳のものをネットで読んだ。
その後、新訳聖書で該当箇所も読んだけれども、音楽があると、イエスの十字架の質感や風の気配、あたりの匂いまでもが感じられるような気がしてくる。とても、つらい。苦しくなる。でも不思議なやすらぎもある。
バッハにも、知的障害のある息子がいたという。
二度目の妻であるアンナ・マグダレーナ・バッハの手記「バッハの思い出 (講談社学術文庫)」に、少しだけその子のことが出てくるのだけど、僅かしかない記述からうかがえる様子が、どうも自閉症児らしく思えてならない。父であるバッハの作曲した曲を聴いて、その息子も波立ち苦しむ心を静めるようなことがあったのではないかと想像する。
被虐イメージを出前する十字架
数日前に、こんな記事を読んだ。
内藤 朝雄(明治大学准教授 いじめ問題研究)
いま「発達障害」という概念を強く疑わなければいけない理由
このなかに、十字架(古代ローマの死刑具)が出てくる。
その部分を少し引用させていただく。
これまで「障害者」というレッテルを貼られることは、人間以下の存在であるかのようにまなざす不当な差別と、人間を「健常者らしく」つくりかえようとする強制力の対象になることであったし、現在でも、実態は変わらない部分を大きく残している。
「障害者」とされる人々は、もっとも非人道的な虐待被害にあってきた層でもある。
それに対し、現在の精神医学指導層の「発達障害」枠組みは、学校の全体主義環境に合わなくて「こまる」人に(さらには「こまり」そうなタイプの人に、前もって)「発達障害者」(あるいは神経生物学的に「発達障害者」になるリスクが高いタイプ)というレッテルを貼ることで、虐待から保護する戦略を採用している。
児童青年精神医学のリーダーたちは、習俗の残酷が歴史的にしみつけられた「障害者」という古い革袋に、学校の中間集団全体主義習俗から一人ひとりの尊厳と多様性を守る手立てという、新しい酒を注ぎ込んだのだ。
これは、古代ローマの死刑具に神の子を虫のようにはりつけたり、コウモリ傘にミシンをみつくろったりするような、ぞっとするほど斬新なアイデアである。
いま、この記事に書かれているようなことが、しっかりと言われる必要があるのだということは理解する。引用部分だけでなく全体的に、だいぶ極端で攻撃的な文章で書かれているけれど、それも必要があってのことだろうと想像する。
うちも当事者だから、「学校の中間集団全体主義習俗」が「診断」のようなものを逆手に取ったときに、あらがう力の弱い個人(家庭)に対して、何をするのかは、身をもって体験しているのだ。(簡単に言うと「学校を出て行け」と言われた)
でも、「障害者」という言葉に「習俗の残酷が歴史的にしみつけられ」ているということを、敢えてこうして公に書くことで、その残酷な歴史が残したおぞましい腐臭が、さらにこの革袋(「障害者」という言葉)に生々しく残留する歳月が伸びてしまうのだということを、この書き手の方は意識しておられるだろうか。
少なくとも私は上のくだりを読んだことで、がっくりと気力を落とした。
相模原障害者施設事件の報道を知ったときような、どうしようもない絶望感とおぞましさ、いたましさが、改めて心の内によみがえってきてしまったからだ。
歴史のなかで、現代社会の狭間で、何度も何度も、「障害者」とされる人々が、十字架にかけられるかのようにして、なぶられて死ぬ、そのリアルなイメージの再現と流布とに、上の記事は心ならずも、あるいは意図的に荷担している。
我が子と同じような人々が、かつて「虫のように」殺戮されてきたという歴史的事実は、どうにも消しようもない。
けれど、頻繁に使われざるをえない「障害者」という言葉を、あえてわざわざそうした過去の事実を生々しく想起させる起動スイッチとなるように仕立てるのは、いかがなものか。
社会の中での扱いがどうあろうと、「障害者」「発達障害」と名づけられる枠組みからはずれようもない立場の人にとって、これは頼みもしない他害、やすらかな自己イメージ損壊のための、お節介な出前になりかねない。
もうちょっとこの、あざとい(失礼!)書き方を、なんとかしていただけないだろうかということだけは、個人的に希望する。(´・ω・`)
もっとも、こういうことに過敏に反応する人は少ないのかもしれないけども、発達障害を持つ人には、好ましくない記憶やイメージをフラッシュバックしやすい傾向があると言われていることも、すこーし考慮に入れてもらえたらと思ったりするわけである。当事者も読むわけだから。
あ、R指定ならぬ「B指定」表示とかしてもらえると、うれしいかもしれない。
brutalityのBで。
贄を探す十字架
そしてまた昨日は、新幹線で起きた殺人事件の報道で、心がつぶれるような思いをした。
新幹線で男性刺され死亡、女性2人重傷 「誰でもよかった」22歳男を逮捕
9日午後10時ごろ、神奈川県の東海道新幹線新横浜-小田原間を走行していた東京発新大阪行きのぞみ265号で、男が複数の乗客を刺し、30代男性が死亡、女性2人が重傷を負った。神奈川県警は殺人未遂容疑で自称愛知県岡崎市蓑川町の無職の自称小島一朗容疑者(22)を現行犯逮捕。「新幹線内で殺意をもって人を刺したことは間違いない」と容疑を認め「むしゃくしゃしてやった。誰でもよかった」と供述しているという。なたで、男性の首の付け根付近を切り付けたとの情報がある。
犯人とされた人物が、知的障害者であるということを報じた新聞もあった。
事件との因果関係が明らかにされない形で、関連性を示唆するようにして見出しの言葉にあげられた障害名は、多くの反発と、それに対する反論を呼んでいる。
障害者差別と偏見の後押しをするものだという強い反発の声。
障害者の権利ばかりを言い立てて被害者に配慮しない障害者側の傲慢さを批判する声。
障害者であることを減刑の理由にするのではないかという危惧の声。
そのほかさまざまな、対立する考えを鏖殺しようとするような声。
かたちの捉えにくい十字架が、荒んだ声の行き交うなかに見え隠れするのを感じる。
それは、血祭りにする生け贄をもとめて「殺したろか」とつぶやきながら浮遊しているかのようでもある。
【Bach】コテコテ大阪弁訳「マタイ受難曲」 第49曲~第53曲
「いま『発達障害』という概念を強く疑わなければいけない理由」を書いた内藤氏であれば、この事件にどのような論評を寄せるのか。氏の提案する、
「診断名:〈発達-環境〉調整障害スペクトラム・環境帰責型(学校タイプ)」
というとらえ方が、環境のなかで苦しむ人たちの福音になりえるには、何が必要なのか。
あざとくてもいいから(たびたび失礼!)、どうか一人でも多くの人が安らかに暮らせるように、被害者や加害者となって苦しむ人がいなくなる方向に、ほんの少しでもいいから、世の中を変えていく方法を見いだしてほしい。