今朝の健康観察日記
木曜、金曜と続けて外出したので、今日はしっかり休養する。それでもたぶん疲れは取れないだろうけど、ここで気を焦らせてバタバタと無理すると、たぶんまた風邪をこじらせたりするので、極力保温とビタミン補給に努めることにする。
だけど、疲れてしまって休養が必要な時ほど、気が焦るんだよね。何もしてない、何かしないと「ダメ」なんじゃないか、と。
こういう、歯の神経がやられた時の鋭い痛みのような焦りには、抗不安薬がよく聞く。つまり、脳のどこかが不必要に発火しているのだろう。
薬飲んでおとなしくしとく。
言葉
うつ病のひとがよく使う、特徴的な単語があるという記事を読んだ。
うつ病の人が良く使う言葉には特徴がある。言語分析で「うつ語」の存在が明らかに(英研究) : カラパイア
孤独、寂しい、悲しい、悲惨な
絶対、完全
否定
一人称(私、自分)
これ、イギリスの研究者の調査だそうだけど、日本人のブログやSNSや、有名人が自身のうつ病について書いた著作などで調査したら、たぶん違う結果になると思う。
日本語では、書かなくてもわかる一人称を省略することが多いし、孤独や悲しいといった直接的な感情表現よりも、状況描写をして、それで孤独を表現することのほうが多いように思うのだ。
統計があれば面白いと思うけど、自分でやる気はしないので、だれか日本の研究者か卒論、修論を書こうとしている学生さんが、やってみたらいいと思う。
読書
若い頃になまじっか学問を齧った時期があって、それはさっぱり身にならなかったけど、多少骨身に沁みて学習したことならある。
それは、たとえ本を読んで深く感動し、心から感心しても、書いたひとのことは信奉しない、ということだ。作家を教祖のようにしない。神のようにもしない。著作を聖書にしない。
わたしには愛読書というものはない。再読する本はあっても、全て一過性のものだと思っている。だって、自分は変化するものだから。
好きな作家と書かれても、名前を挙げることはできない。いないのだ、好きな作家。(嫌いな作家はなぜかいる。でも嫌いな作家の本はちゃんと読んだことがない場合が多い。理由はもちろん嫌いだからだ)
作家を信奉しないこと、作品を至上のものとしないことは、私にとっては、ある意味、作家や作品に対する礼儀である。優れたものを書いたからって生きたまま聖別され信心などされたら、まともな作家なら、やりにくくてたまらないだろう。新しいものを書きにくくてしかたないだろうから。死んだ作家なら文句は言わないかもしれないけど、時代が離れていくにつれて共通認識が薄れていって理解が難しくなり、つまり「よくわからない」状態になったものを、わかりもしないのに凄い凄いと言い立てるのは失礼だ。せいぜいよくわからない凄みに対して畏怖にかられて黙っておく、あるいは誠実に学ぶぐらいにしておきたい。と思っている。
橋本治が「宗教なんかこわくない!」のなかで、こう書いていた。
私自身、うっかりすれば"教祖"にさせられてしまう。(だから私は"読者"というものが好きではない)
(すぐれた)作家って、大変だなと思う。
どうでもいいんだけど、Amazonのデータ検索で「宗教なんかこわくない」と入力すると、ハインラインの「スターマン・ジョーンズ」が表示されるんだけど、なんでなんだろうか。合わせて読めってか?