湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

いろいろ日記

今日の健康観察日記

 

睡眠、まずまず。
関節、まずまず。

ただ、歩くと膝がちょっと痛む。
昨日、外出して、いつになくたくさん歩いたせいだろうう。
少しづつ、慣らしていかないと。

 


映画

「神様からひと言」という邦画を見た。

 

 

神様からひと言 [DVD]

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原作は、荻原浩の同名の小説。

 

社員は上司には決して逆らわず、たとえ社長が意図的に会社を潰そうとしていても、唯々諾々と従うことで目先の保身を最優先させる……という不文律のある会社に中途採用で入った社員が、自分の意見を言おうとしたために、本社から遠く離れた「お客様相談室」に左遷され、そこで出会った奇妙な同僚たちと一緒に、馬鹿社長から会社を守りぬくというお話。

 

神様らしき人物(セイン・カミュだったらしい)は出てくるけれど、その人から何かひと言あるわけではない。結局は、主人公と同僚たちのなかにある、真実を見極めてやるべきことから逃げない心が、会社を救う力になっていた。

 

それにしてもひどい会社だった。(´・ω・`)


映画だから誇張して表現するのかもしれないけど、家畜用の飼料をまぜて原価を安くしたカップ麺をわざわざ作って、それをマスコミに自らたれ込んで株価を下げて、知り合いに乗っ取らせようとする社長を、誰一人とめようとしないのだ。

 

会社というところで働いたことがないのでよくわからないけれど、ここまでひどいところは存在しないと思いたい。


思いたいけど、つい先日も、車がリコールだと連絡がきて部品交換に出かけたばかりだ。何度目だっけ、タカタのエアバッグ交換させられるの。(´・ω・`)


ニュースに疎くてよく知らなかったけど、ずいぶん人が亡くなっているのだった。
ぞっとする。

 

 

www.nikkan.co.jp

 


短歌というか和歌


ふと気づけば、短歌雑誌の投稿の締め切りが「明日の消印まで有効」だった。
あわててノートをめくって詠んであった短歌から選ぼうとしたけど、どれも、ひどかった。orz

 

推敲したり、詠みなおしたりして、なんとか許容できる歌をまとめて、書いて、投函。

いつも、こんな感じだ。
毎日ちゃんと時間をとればいいのに。へたくそな歌でも詠んでおけば、勉強になるし材料にもなるのに。
間際にならないと、ちっともできない。

 

落ち込んだときは、和歌を眺めるとちょっと元気が出たりする。

万葉集が好きだ。


Kindleの無料本(青空文庫由来のもの)のなかに、正岡子規の「万葉集を読む」という本があって、額田王の歌について書いてあるのを、ここに引いてみる。

 

 

万葉集を読む

万葉集を読む

 

 

 


冬ごもり春さりくれば 鳴かざりし鳥も来鳴きぬ 咲かざりし花も咲けれど 山を茂み入りても取らず 草深み取りても見ず 秋山の木の葉を見ては 黄葉をば取りてぞしぬぶ 青きをばおきてぞなげく そこしうらめし 秋山吾は

 

正岡子規は、この歌について、身も蓋もないことを書いている。

 

「此歌、秋山を以て春山にまされると判断はすれど、其まされるとする理由は少しも分からず。吾は思ふ、天智天武両帝同じ思ひを額田王にかけ給きと聞けば、此歌も暗に春山を天智帝に比し秋山を天武帝に比し、此時いまだ志を得られざる天武帝をひそかになつかしく思ふ旨を言ひいでられたるには非るか。(明治33・7・3)

 

 

どうなんだろうか。


正岡子規は、額田王が、春山を天智天皇、秋山を天武天皇に見立てていると言っているけれど、それとは全く違う見立ての可能性はないだろうか。

 

たとえば、こんな具合に。

 

「鳴かざりし鳥」「咲かざりし花」=魅力的ではあるけれど額田王的には特に興味のない若い男たち(との新しい恋)

「黄葉」=シニアな天智帝(との因縁の愛人関係)
「青き(葉)」=まだ年若い天武帝(との危険な関係)


彼女は春山を「手に入らないもの」としてあっさり見限っているのに、秋山については、「黄葉」と「青き(葉)」を、それぞれ自在に手に取って、しのんだり嘆いたりしている。

 

恋心が一つところに定まらずに揺れ動いていて苦しいのに、そのややこしい状況を敢えて選んで「秋山吾は」と宣言しているのじゃなかろうか。

 


言葉


ところで上の額田王の歌の「冬ごもり春さりくれば」を、一般的な解釈では「冬が去って春がくれば」としているようだけれど、どうも納得がいかない。


「冬ごもり」で、どうして「冬が去って(過ぎて)」という解釈になるのか。
「こもる」といえば、閉じこもったり引きこもったり、隠れたりする意味が主であって、古語辞典を眺めても「過ぎる(去る)」というような意味は見当たらない。

 

「春さりくれば」も、よくわからない。
(ネットで見られる学研全訳)古語辞典には「さる(去る)」という動詞に「来る」の意味があるという語釈を載せているけれど、それだったら「さりくる」と、同じ意味の言葉をわざわざ重ねる意味が分からない。

 

「さりくる」という表現は、「春」のほかに、「夕」「夜」「秋」にも使われているようだ。季節や特定手の時間帯に限定的に使われるものらしいけれど、ネットで粗忽に調べた限りでは「朝」や「夏」は、「さりくる」事例が見つからない(索引とかでっかい辞書を引く根性がない…)。


という疑問を持ったので、そっちのほうの専門家に聞いてみようと思う。
返事が来たら、また後日の日記で。