湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

朝刊と言葉とスープ

 

障害者

 

息子(二十歳)が重度の知的障害を伴う自閉症なので、「障害者」についての報道等は、わりと気をつけて見るようにしている。


今朝の新聞に、こんな投書記事があった。

 

 

けがをして初めて気づいたこと
高校生 浜辺イザベラ(三重県 18)


 私は交通事故に遭い、一時期、車いすや松葉杖を使っていてあることに気づきました。

 私は、移動している時に邪魔な目で見られたり、特別扱いをされたりするようになりました。子どもに「障がい者や!」と言われ、それが嫌で引きこもるようになりました。どうしたら迷惑をかけないようにできるかと考えたり、なぜ自分なのかと責めたりもしました。そのときの私の気持ちは「健康な人として見てほしい」の一言でした。

 わたしは、生まれつき体が不自由な人たちの気持ちが少しだけ分かるようになりました。彼らの気持ちを考えれば考えるほど、私は重い気持ちになり、混乱しました。

 私は今回のけがで、障がいのある人たちを特別扱いするのではく、普通に接することが一番大切だと気づいたのです。

(2018年2月9日 朝日新聞朝刊)

 

 

この訴えが、どれほどの人の心に届くのだろうかと思うと、気持ちが暗くなる。


「移動している時に邪魔な目で見られたり」

「子どもに『障がい者や!』と言われ、それが嫌で引きこもるように」


こういう目を向ける大人や子どもは、この投書記事をまず読まないだろうし、たとえ読んで、どうとも感じないだろう。

 

マイノリティの問題が、同情されることはあっても共感されにくいのは、いまに始まったことではないけれども、実情や思いがメディアに拾われて、活字などになればなるほど、その孤立性が際立っていくような気がするのはなぜなのか。


同情を、共感に変えるのは難しい。
投書した方のように、自ら同じ境遇を経験してみなければ、共感することは困難だ。

さらに、ハンディキャップのある人に対して、差別的でも特別扱いでもない、「普通」に接するとは、具体的にはどういうことなのかを、本気で考え始めたら、それがなかなか答えの出ない問題であることも分かってくる。


侮蔑や差別の態度をとらないというのは、わかりやすい。

邪魔な目で見ないということには、おそらくは本心を隠すということが求められてくるのだろう。

それは具体的には、

「本当は邪魔だけれど、それを顔に出さずに我慢して、手伝いをしたりゆずったりする」

ことであるかもしれず、そうなると、「普通に接する」ということにおいて、接する側には、

「自分にとっては普通ではない、知識やスキルや忍耐」

を求められるということにもなってくる。それを自然に行うためには、経験や慣れも必要になってくるだろう。


障害者ではない大多数側が、障害者に対して「普通に接する」ために求められる負担について、当然負わなくてはならないものであると考えていない状況では、「普通に接する」ということが一般化されていくのは、とても難しい。


それでも、とりあげて、言葉にしていくことは、やはり必要なのだとも思う。
そうしなければ、そこに問題があること自体、見逃されていってしまうのだろうから。


自宅マンションで、息子をつれて外出するときに、私はエレベーターを極力使わず、階段を利用する。狭いエレベーター内で他の方々と一緒になったときに、ごくまれに、いやな顔をされたり、避けられたりすることがあるからだ。足腰が痛いから、ほんとうはエレベーターを使いたいけれど、そういう経験をするよりも、痛みを我慢したほうがマシだと思ってしまう。とくに気持ちが落ち込んでいるときに、そういう対応をされると、ものすごく心が凹む。つまり、自衛のための階段利用である。


ときどき小声で不思議な日本語を話す息子には特に危険なことなどなく、「普通に接する」ことは、そんなに難しいことではないと思うけれど、エレベーターに同乗するのを避けようとする人に、それをその場で説明することは難しい。ネットを見れば、知的障害者の他害行動をあげつらって批判する発言がいくらでもあるし、知的障害者が加害者となった事件は、そうではない事件よりも際だって報道されることもしばしばある。そういう風潮に対抗するために、マイノリティ側が一体何をすればいいのかと、途方に暮れてしまう。

 

けれども、途方に暮れるばかりでは仕方が無いとも思うので、こんな記事を書くのである。

 

 

 


言葉


上の記事を書いていて改めて思ったのだけど、「同情」と「共感」、とても似ている言葉だけれど、運用面ではだいぶ差があるように思う。


「同情」には、親身になる、苦しみを共に感じようとするという意味だけでなく、「あわれみ」や「かわいそう」と思う気持ちなどが含まれることが多い。そこには、どこか上から目線的な、強者が弱者に寄り添うというような、水平ではない関係性が感じられる。


「共感」は、「同情」よりも、ずっと対等に近い間柄であるように思う。
全く同じではなくても、近い経験をしたという立場から、相手の感情や状況を推測している。

 

そんな使い分けが始まったのは、いつ頃からなのだろう。
なんとなく、そんなに古い話ではないような気がする。
 

 

 

 今朝の健康観察

毎度のことながら、寝起きがつらい。

全身ぎしぎし。関節痛い。もうずっとだ。

 

自律神経関係の健康本は、びっくりするほどたくさん出版されている。

CDや、塗り絵なんかもいろいろある。

とくに、小林 弘幸という方の著書が、ずいぶん見つかる。

流行っているのかな。まだ読んだことないけど。

 

ひねくれ者なので、流行り物には手を出さない。

 

「自律神経」でAmazon検索して、人気準にソートしてから、 わざわざ人気の低いほうの書籍をながめていて、「美腸スープ」という本を見つけた。(2018年2月9日現在、Kindle読み放題)

 

毒出し 脂肪燃焼ダイエット美腸スープ

毒出し 脂肪燃焼ダイエット美腸スープ

 

 

「美腸スープ」……つくづく、すごいタイトルだ。

自分の腸が食材にされそうな勢いに押されて、ダウンロード。

いま、パソコンで読んでいる。

 

 

なかなかおいしそうだ。

 

白のスープというのが気に入った。

押し麦、長芋、たまねぎ、えのきだけといった、白い食材を、かつおこんぶと鳥だしで煮るようだ。

 

やってみよう。