湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

歴史

膝の痛みがだいぶ軽くなってきた。

おかげで、日曜学校への道のりが、快適で助かった。よいお天気で、あたたかい。

 

今日は、ヨハネ福音書の第4章にでてくる、サマリア人の女性とイエスの会話についてのお話をうかがった。

 

 

当時、サマリアに住む人々はユダヤ人と折り合いがとても悪かったのだという。イエスの時代よりずっと昔、紀元前七百年代に、アッシリアイスラエルの王国を侵略し、サマリア地方にいた指導者層を強制移住で追い出し、かわりに異民族を連れてきて住まわせた。その移民により、サマリア地方でユダヤ人と異民族との混血が行われたことから、純粋な血統であることを重んじるユダヤ人との間に異文化間摩擦的な対立が生まれたのであるらしい。

 

ウィキの「サマリア人」の記事を読むと、ユダヤの人々がサマリア人を疎んじ蔑んだ理由は、かならずしも血統のことだけではないようだけれど、なにはともあれ、イエスの時代には、互いに口をきくことすらありえないほど、対立は深刻だったようだ。

 

 

そういう状況であるにもかかわらず、イエスサマリア滞在中に、ヤコブが掘ったという井戸のそばで休んでいるときに、水を汲みにきたサマリア人の女性に水をくれるように頼んだ。

 

話しかけられた女性は仰天したけれど、イエスが女性の身の上について具体的に言い当てたために、イエスが救世主であると悟って、町の人々を呼びに行く。

 

エスが言い当てたのは、女性には過去に五人もの夫があったけれども、いまはその全員が彼女の夫ではなくなっているということだった。一体どんな事情でそういうことになったのかは、聖書に詳しく書かれていないのでわからないけれども、幸福な状況でないことは想像がつく。彼女はひと気のない暑い真昼に井戸にやってきていた。他の住人と顔を合わせたくないのだろう。

 

ユダヤ人から差別されるサマリア人のなかでも除け者にされているような女性に、分け隔てなく親身に声をかけたことがきっかけとなって、そこの町に住むサマリア人たちが、イエスを信じるようになった、というのが、お話のあらすじだけれども、より深く詳細に読解できる人にとっては、もっと違った意味を含むエピソードであるのだろう。

 

私にわかるのは、救世主という存在が、歴史的経緯や因習からくる差別意識や異文化間摩擦などを、やすやすと超えて行くものだということだけだ。イエスは移民によって生じた混血の子孫たちを差別しなかった。そういうことが聖書に書いてあるのに、聖書を使って宣誓したはずの、どこぞの大統領は、他国を名指しして「shitholl」などと公言し、アメリカに移民してきた人々の故郷の国を批判していた。

 

「便所のような国」発言、批判続々 トランプ氏は否定:朝日新聞デジタル

 

聖書、読んでないんだろうか。

あるいは忘れちゃったか。(´・ω・`)

 

 

信仰のことは、まだほとんどわからない。

でも神さまという存在は、本当に人間を愛してるんだろうということは思う。でなけりゃとっくに見捨てているだろうから。

 

 

そういえば、サマリア人と呼ばれる人々は、今世紀に入って、数百人しか存在していないのだとウィキに書いてあった。長い歳月の迫害と、近親婚が、そういう事態を招いてしまったらしい。多民族的なルーツであったはずの過去の経緯を思えばなんとも皮肉だ。

 

Googleストリートビューで、サマリアのあたりを眺めてみた。石ばかりの光景が多かった。あるいは石造りと思われる家々。