湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

三浦綾子「母」読了

 

昨日読み終えたばかりの「氷点」への、心が泡立ち震えるような思いは、一夜明けても残ったままだった。

 

強い感動は、重い疲労も連れてくる。

三浦綾子作品は恐ろしい、「続 氷点」はしばらく読めそうにないと思っていたけれど、今日は午後から車の定期点検の予約を入れていたことを思い出し、整備工場での待ち時間に読むものを何かiPhoneKindleに入れて持っていこうと思って、Amazonの読み放題本を検索したら、これを見つけてしまった。

 

 

三浦綾子 電子全集 母

三浦綾子 電子全集 母

 

 

 

「母」は、小林多喜二の実母のことだという。

 

きっと、つらい物語だろうと思った。

若くして悲惨な亡くなり方をした人の母親が、つらくないはずがない。

 

読もうかどうしようか、少し迷ったけれども、人生の大先輩であるネットのお友だちが、まさにいまこの作品を読んでおられると聞いて、背中を押されたようなつもりになって、読んでみることにした。

 

結果、またしても一気読みで読了。

中ほどから、涙が流れてしかたがなかった。

つらかった。

 

けれども、つらさばかりが残る読書では、決してなかった。

 

たった十三歳で、貧しい農家から、没落した農家へと嫁いだ「母」は、極貧のなかで、何人もの子を産み、宝物のように育てた。その貧しさと、「母」の素朴な愛情が、小林多喜二という作家の人生を作り上げたのだと思う。

 

「母」によって語られる息子、多喜二は、ひたすらにやさしく、公平な人物である。虐げられた人々を見ながら育った彼は、多くの貧しい人が救われるようにという一途な思いから、作品を書き続け、政治運動に参加したのだという。

 

文学のことも政治のこともわからない「母」は、弱いもの、貧しいものの幸せを願う息子の行いは正しいのだと、素朴に信じた。

 

けれども、警察はそんな息子を捕まえて、拷問して殺してしまった。

 

多喜二の惨たらしく変わり果てた姿を撮影した写真が、ネット上にある。当時の警察が撮影したものなのだろうか。それとも葬儀をしたという仲間の誰かが撮ったのか。

 

亡骸をじっと見つめているらしい、多喜二の母セキの写真も、検索すると見ることができる。

 

けれども三浦綾子の文章は、写真から伝わるものをはるかに凌ぐ「母」の苦しみと、終わりのない絶望とを、生々しくえぐり出している。

 

この作品は、「母」の一人語りのような形式で書かれている。作者が誠実な聞き手として「母」の前に座り、一緒にお茶を飲み、メモを取っている気配まで感じ取れるような語り口になっているから、途中まで、作者が直接自宅に行って、本人に取材し、録音資料などを基にして書いたものとばかり思って読んでいた。

 

けれども、よく考えたら(考えなくても)、年代が全く合わない。

 

この小説が発表されたのは、1992年であり、作者が夫に本作の執筆を勧められたのは、その十年ほど前だったと、あとがきにあった。

 

だけど、多喜二の母セキが、八十七歳で亡くなったのは、1961年であり、それは三浦綾子が「氷点」でデビューした頃なのだ。作者は多喜二の母と直接会っているはずもないのだった。

 

私が間抜けで迂闊すぎることを割り引いたとしても、三浦綾子は、やはり怖い作家だなと思う。

 

 

(_ _).。o○

 

 

「母」を読むまで、小林多喜二については、実のところ、ほとんど知らなかった。秋田で生まれて小樽で育った人だというのも、知らなかった。

 

国語便覧的な知識として、プロレタリア文学の作家であることと、反体制的な活動をしていたという理由で警察に逮捕され、惨たらしい拷問を受けて亡くなったということ、あとは「蟹工船」のあらすじくらいは記憶していたけれど、それ以上、この作家の世界に分け入っていくきっかけが、自分にはなかったのだ。

 

若い頃の私は、なんらかの政治運動をする人々が、とても苦手だった。

ついでに言うなら、なんらかの宗教活動を行う人々のことも、とても苦手だった。

 

なぜなら、そこらを一人で歩いていると、頻繁にそういう人々の「勧誘」の網にかかり、こちらの心情や言葉をガン無視されて、一方的に考えを押し付けられることがあったからだ。

 

彼らの話を聞いて(聞かされて)いると、ハエ取り紙に捕まったショウジョウバエになれと言われているような気がした。実際、目の前にいるのが私だろうと、ヒトの姿をした小蠅だろうと、彼らには関係なかったろうと思われる。

 

私は自分がどんな人間であるかも覚束ない、考えもろくに定まらない、頼りない人間だったけれども(見た目もそうだったから頻繁な勧誘を受けたのだと思う)、ハエ取り紙につかまるショウジョウバエになりたくはなかった。

 

そんなわけで、プロレタリア文学も、宗教色の強そうな文学も、大雑把に一括りにして視界の外に置いていた。

 

 

そんな私でも、この「母」の視点からの思想や宗教感は、よく分かるように思えた。

 

 

 

わだしが思うに、右翼にしろ、共産党にしろ、キリスト教にしろ、心の根っこのところは優しいんだよね。誰だって、隣の人とは仲よくつき合っていきたいんだよね。うまいぼたつくったら、つい近所に配りたくなるもんね。むずかしいことはわからんども、それが人間だとわだしは思う。そりゃあ人間だから、悪いことも考えるべさ。ある時は人ば怒鳴りたくもなるべさ。でも本当は、誰とでも仲よくしたいのが人間だよね。

 

三浦綾子「母」より引用)

 

 

 現実には、思想や宗教が人をたくさん、それこそハエのように死に至らしめているけれども、「母」のいう「人間」に立ち返ることが出来たなら、そんなことを起こさなくても済むはずだし、誰の息子も、キリストや小林多喜二のように、惨たらしく殺されることはないはずだ。

 

 

もっと引用したい箇所があるけれども、iPhoneだけでの長文作業はキツい。3000字も書いてないのに、疲れちゃったので、ここまでにする。(´・ω・`)

 

 

 

 

三浦綾子「氷点」読了

昨日Kindleで上巻をダウンロードして、内容の重さにたじろぎながらも読み始めた「氷点」。

 

↓昨日の日記

氷点を読もうとしている - 湯飲みの横に防水機能のない日記

 

あっという間に、上巻を読了。

下巻(は読み放題ではない)もダウンロードして、イッキ読み。

 

 

三浦綾子 電子全集 続 氷点(下)

三浦綾子 電子全集 続 氷点(下)

 

 

キリスト教で言われる「原罪」を、作者がどう捉え、あらゆる苦しみのなかで人が生きることをどう受け止めていたのか、自分なりに、すこしは理解できたように思う。

 

求めた愛を得られないことからくる嫉妬、憎悪が、悲劇を作り出し、そこからさらに憎悪が生み出されていく。その憎悪の連鎖は、全ての罪を受け止めて自ら命を断とうとする少女、陽子が現れるまで、誰にも止められなかった。

 

 

人妻の夏枝を執拗に誘惑し、夏枝の家族を邪魔者として憎んでいることを隠しもしなかった村井は、作中では最も浅ましく身勝手に見えるけれども、愛から遠いという意味では一番不幸な人物だったかもしれない。彼は、夏枝を手に入れられない腹いせに、自分の不貞を諌めた女性を逆に脅して陵辱し、失踪させたばかりか(彼女は自殺したであろうことが仄めかされている)、それを全部夏枝夫妻に責任転嫁した。どれほど苦しんでも、九死に一生を得るような体験をしても、村井には、妬み嫉み奪い取る以外の生き方への気づきは起きなかった(続編でどうなったかは知らない)。

 

不倫の露見を恐れながらも、自分の美貌への村井の執心に快感を覚えるような女性であった夏枝は、そのことが原因で実の娘を失い、夫を亡くしかけるという経験をして、家族をかけがえのないものと思う機会は何度もあったのに、なにかと理由をつけては嫉妬や憎悪を外に向けるという方法で、自分の醜い内面と向き合うことから逃げ続けた。

 

村井や夏枝のような人は、きっと太古の昔からいて、不幸の種を蒔いていたのだろう。そういえば旧約聖書にもでてきてた(日曜学校で習った)。父であるヤコブの愛を一身に受けたヨセフが、嫉妬にかられた兄たちの謀略でエジプトに売り飛ばされ、そこで奴隷として働いている時に、あるじの奥さんの誘惑をはねのけたら逆恨みされて投獄されて、という物語。記録されず、忘れられていった無数の類似の出来事が、「姦淫してはならない」「隣人の妻や財産を欲しがってはならない」というような戒めの原因になったのかと想像すると、心が暗くなる。妬み嫉みのために、どれだけの人が人生を誤り、命を落としたのだろう。

 

 

 

妻と部下の裏切りを察して憎悪にかられ、自分を愛さない妻への報復を決行してしまった啓造は、その後も嫉妬と憎しみに縛り付けられながらも、なんとか憎悪の連鎖から抜け出たいと願い、聖書を手に取り、教会に足を運ぼうと試みたりもするけれども、自ら断ち切る勇気を持つことはなかった。

 

自分の娘を殺した男の子供を引き取って、それと知らせずに妻に育てさせることで、浮気した妻を深く傷つけようという啓造の心の闇は、自分のやっていることの醜さや罪深さをある程度自覚し、恥じ入っているだけに、村井や夏枝よりも深いように思われる。妻に愛されないことで、医師としての自分の存在意義すら揺らぎ、誇りを見失ってしまう啓造は、孤独な幼子と変わらない。

 

 

村井と夏枝の密会中に殺されてしまった、夏枝の娘、ルリ子は、死ぬ直前に、誰も自分と遊んで(愛して)くれないという、悲しい言葉を残していった。まだ三歳だったという、ルリ子の言葉は、この物語に出てくる人々全員の心の欠損を代弁したものだったようにも思う。

 

 こんな家庭に引き取られ、「愛娘を殺した犯人の遺児」として、養父母から愛されずに育った陽子は、幸か不幸か、憎悪の連鎖を断ち切る力を持っていた。彼女だけは、求めても得られない愛情に執着することなく、自分をめぐって渦巻くドロドロした感情をすべて自分の問題として取り込み、真正面から葛藤し、そして凍ってしまった……のだと思う。

 

ルリ子の殺された河原で睡眠薬自殺を図った陽子は、啓造や夏枝たちの懸命な看護の末、かすかに生き延びる気配を見せたものの、下巻の最後まで目を開けることはなかった。

 

新聞連載時、陽子の蘇生を願う読者から、たくさんの電報が届いたという。それで作者は続編を書くことになったというけれども……。

 

 

続きを読むのは、もう少しあとにしようと思う。

目覚めても、陽子の前途はかなり大変そうだから。(´・ω・`)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

氷点を読もうとしている

ずっと読まずに敬遠していた、三浦綾子の「氷点」のKindle版が、読み放題(Kindle unlimited)(に入っていたので、いい機会かもしれないと思い、ダウンロードした。

 

 

三浦綾子 電子全集 氷点(上)

三浦綾子 電子全集 氷点(上)

 

 

敬遠していたのは、あらすじのせいだ。

 

医師の妻の不倫中に、幼い娘が殺害される。

夫は妻の裏切りを知っていたけれど、表だって妻を責めることはせず、報復として、殺人犯の娘を、妻にはそれと知らせずに養女として迎える…

 

と、内容をちょっとばかりかじっただけでも、舞台となった北海道の旭川市が氷結したドロドロの渦巻く、おぞましくも異様な世界であるように思われて、たじろいでしまう。

 

実のところ、ドロドロは苦手だ。心から。(T_T)

しかし読みたい。

 

作者の三浦綾子キリスト教を深く信仰していた人であり、「氷点」は、キリスト教的な観点から人間の原罪について深く考えさせられる作品となっているという。

 

原罪。罪。

日曜学校で聖書について習っていると、キリストが背負って死んでくれたものとして、頻繁に出てくる概念であるけれども、それがなんなのか、私には分からない。

 

せめて日本人のキリスト教者が、どのように罪を考えていたのか、知る手がかりがほしいということもあって、三浦綾子の小説を読みたかったのだけど(エッセイはいくらか読んでいる)、「氷点」をはじめとして、どれもたじろぐようなあらすじの物語ばかりなので、なかなか手をつけられずにいたのだ。

 

なにはともあれ、たじろいだままでは読み始められないので、ちょっとづつ心を慣らす目的で、コミック化された「氷点」のお試し版を、ちょろっと見てみた。

 

 

氷点(上) (フラワーコミックス)

氷点(上) (フラワーコミックス)

 

 

コミックの「氷点」は、ドロドロどころか、冴え冴えとした美の世界のようである。

 

不倫妻も、不倫相手も、寝取られ夫も、殺された娘も養女となった娘も、氷の彫像のように冷え冷えとうつくしい。

 

けれども、コミックでは、冒頭からいきなり、不倫妻の長男(美青年)が、養女となった妹(美少女)に、禁断の愛の告白をしてしまうという、ヤバい状況から始まっている。これは不倫とは違った意味で、胃にきそうな展開だ。この二人、どうなってしまうのか。

 

・・・まだ原作を読む勇気が出ないので、今度はドラマ版を探してみることに。

 

 

 

氷点 [DVD]

氷点 [DVD]

 

 

医師の不倫妻役は、若尾文子だったらしい。

 

Amazonビデオで予告編を見た(有料レンタル可能)。

罵り合う医師夫妻。

うつくしく成長した養女につらく当たり続け、「あなたは殺人犯の子」と憎悪を込めて宣告する、若尾文子。衝撃を受けて、雪の中で自殺を図るらしき養女。彼女を追って、雪原を疾走する若尾文子

 

こ、怖かった(T_T)。

 

 

さらに、「氷点2001」の主題歌の動画を見てみた。

 

 


infection  鬼束ちひろ 氷点

 

 

二十一世紀の不倫妻は、浅野ゆう子が演じている。

そして、雪原ではなく石だらけの河原を失踪し、多量の薬で自殺を図った娘を発見。

いとおしそうに娘をかき抱く不倫妻・・・・いや、蘇生してあげようよ(T_T)。

 

 

だいぶ心の準備はできたので、読み始めることにした。

 

 冒頭は、舞台となった旭川市郊外の辻口邸の描写。

そのすぐあとから、辻口医師の妻である夏枝と、青年医師である村井との、きわどい駆け引きが描き出される。

 

 

「夏枝さん」

 白いしっくいの壁を背にした夏枝の前に立ちふさがると、村井は夏枝の肩に手を置いた。村井の手のぬくみが、浴衣を通して夏枝の体に伝わった。

「いけません。怒りますわ、わたくし・・・・」

 村井の顔が覆うように夏枝に迫った。

「村井さん、わたくしが辻口の妻であることを、お忘れにならないでください」

 夏枝の顔が青かった。

「夏枝さん、それが忘れられるものなら・・・ぼくはそれを忘れたい! 忘れられないからこそ、今までぼくは苦しんで来たんじゃありませんか」

 村井の手が夏枝の肩を激しく揺さぶった、その時であった。廊下に足音がして、ドアが開いた。

 

 (三浦綾子 電子全集「氷点」上巻 小学館)

 

 

 ここで入ってきたのが、夏枝の夫である辻口だったなら、これから起きるすべての惨劇は起こり得ず、うつくしすぎる若尾文子もワガママそうな浅野ゆう子も、死にゆく娘を追いかけて疾走する必要はなかったはずだった。

 

けれども入ってきたのは夏枝の幼い娘、ルリ子であり、村井との不倫のドラマに浸っていたかった夏枝が、その場からルリ子を追い払ってしまったがために、ルリ子は命を落とすことになる。その後、許すことのできない大人たちの思惑が絡み合った末に、辻口夫妻の養女となった陽子の自殺という悲劇が起きてしまうわけだ。

 

 

それにしても、読み始めてみると、一気に引き込まれる文章だ。

覚悟も出来た。

続きを読もう。

 

 

氷点2001」の主題歌、きれいだな。。。

悲しいけども。

infection

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  • provided courtesy of iTunes

 

 

 

 

 

 

 

 

展覧会に行った

 

埼玉県立近代美術館で、障害者アートの企画展が開催されていて、それを見に行ってきた。

 

「うふ🖤 埼玉でこんなのみつけちゃった♪」

第八回埼玉県障害者アート企画展

 

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病院の帰りに、電車で迂回して立ち寄ったので、体力はギリギリ。駅を出て美術館の敷地に入ったところで遭難しそうになったけど、なんとか館内にたどりつき、無事見学できた。(企画展は入場料無料)

 

 

素晴らしかった。

足腰が痛いのも忘れて、一つ一つの作品に見入った。

いつまでも見ていたかった。

 

自分が重度の知的障害者の息子を持つ母親だから、家族の立場での感情移入を起こして感動するのだろうかと、自問した。違うと思った。

 

作品から迫ってくるのは、そういう感傷とは次元のちがうものだったと思う。

 

だって、見れば見るほど、自分も描きたくて、作りたくて、たまらなくなるのだから。

 

 

本を購入した。

 

 

問いかけるアート 工房集の挑戦

問いかけるアート 工房集の挑戦

 

 

 

上の展覧会でメインに作品を発表されている作家さんたちが所属する、「工房集」という、生活介護型施設についての本だ。埼玉県立近代美術館でも販売しているけれど、私は末っ子がお世話になっている病院の売店で購入した。

 

中に、こんな一節がある。

 

人類は他者との共感をもとに社会を築いてきたといわれる。「工房集」でも、共に時間を過ごすなかで育まれた信頼関係が、ゆるやかにつながりを生み出している。私たちは、そこから生まれた作品を通して、まだ見ぬ世界の姿を、未来を垣間見るのだろう。

 

障害者、とくに重度の知的障害者は、多くの人々の共有する意識のネットワークから、遮断されたところに置かれているのだと思う。

 

みずから発信することの難しい彼ら。

言ってもわからないだろうと予見し、相互通行的なコミュニケーションをはなから諦めている周囲(たとえば障害者施設の内側に入ることのない人々)。

 

そうした断絶が、彼らを渡るすべのない川の「向こう側」に押しやり、心理的に遠ざけ、やがて「得体の知れない、恐ろしいもの、厄介なもの」であるかのようなイメージが、かぶせられていく。社会に余裕がなくなるにつれて、そのかぶせられるイメージに、「税金の深刻な負担となる福祉の対象」という、損得勘定を帯びた否定や批判の心情が加味されてしまう。

 

 

それが最悪の形で表面化したのが、昨年の相模原の知的障害者施設での事件だった。殺すべきであるという思想のもとに、それを実行してしまった犯人には、自分に共感する社会の大多数の意識が犯行の正当性を支える後ろ盾になるはずだという確信があったようだ。

 

 

あの犯人は、自ら施設で働きながら、心情的に障害者の側に渡り、寄り添うことはなかったのだろう。言葉を発しない、コミュニケーションの難しい人を選んで(そうであることを確認しながら)危害を加えていたという記事も読んだ。

 

 

だから、発信しなければダメだと思ったのだ。

皆、ここにいるし、それぞれのやり方で生きることに勇敢に立ち向かって暮らしているのだと、外に出て向かって伝えていかなくてはと。

 

 

 

美術展には、ぜひまた行きたい。

そしてできれば、会場に行けない人のためにに、さまざまな方法で発信してもらいたいとも思う。本や、画像や、映像で。

 

 

そんな気持ちも込めて、このブログを今日は書いた。

 

 

 

うちの息子(重度の自閉症)は、絵画造形には興味がなく、絵を描くことも滅多にない。そのかわり、毎日文字は書く。言葉は文字で覚えるので、聞いた言葉を記憶しようとするときは、指で空書しながら覚える。

 

 

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このお正月には、ひさびさに墨と筆で書き初めをやってもらおうかと思っている。勢いのある、よい字を書くのだ。

 

 

 

 

 

 

健康観察とプレゼント関連の懊悩

 

昨日ときょうの健康観察

 

昨日の時点で、かなり調子が悪かったけど、PTAのあつまりがあるので、自分に鞭打って外出。

 

出かけている間は、そんなにつらさを感じなかったけど、帰宅した途端、体力気力がドカンと落ち込み、鬱に引きずられそうになったので、無理せず休養。安定剤のお世話になって、気持ちが安らいだところで、夜十二時くらいに就寝。

 

今朝、目が覚めたら、ほぼ石化がかかったような状態。

関節ギシギシ。立ち上がるのにも一苦労したものの、動き始めたら、なんとかいけた。

 

手は握りにくくて、まともにグーを作れないけど、痛みは、そこまで強くない。

ゆずの香りのするハンドクリームを塗って、ときどきマッサージしながら、これを書いている。

 

ハンドクリームは、これ。

 

information.pal-system.co.jp

 

生協の宅配のカタログにあったので、なんとなく注文してみたら、結構気に入った。

 

あまり見かけないと思っていたら、生協の職員さんたちが開発したものだとのこと。

 

今日は無理せず、のんびり暮らそう。

のんびりすることが許されているのは、めぐまれたことだと感謝しながら。

 

 

 

プレゼントに悩む

 

息子の誕生日が近いので、あれこれ候補をあげながら、決めかねている。

 

今年二十歳になる重度自閉症の息子への贈り物は、ほんとうに悩ましい。

いま手元にあるものを深く愛しているから、それと違うものを自らほしがろうとしないのだ。

 

けれども、新しいものが全く嫌いなわけではない。

自分では選ばないし、選べないけれど、好ましい変化は歓迎するタイプである。

 

言葉はほとんど話せないから、質問してほしいものを聞き出すこともできない。

 

息子がいま一番好きなのは、iPadでマインクラフト(通称マイクラ)をすること。

 

 

マイクラの画像集などどうだろうと思ってAmazonを見てみたけれど、息子が気に入りそうなものが見つからない。

 

なので、ネットで画像をキャプチャーして、絵本風の冊子を自作してみることにした。

 

そんな手のこんだことはできない。

ワードに、画像を貼り付けて、下に簡単な説明文をルビ付きで載せるだけ。

 

一ページつくって見せてみたら、さっと目を通してくれて、とくに拒絶はしなかった。食いつきはあまり良くないけど、顔をみると、うっすらほほえんでいる。

 

ページを増やしながら、いろいろ工夫してみよう。

 

ほんとは、マイクラのLEGOブロックみたいなのにハマッてくれると、ラクなんだけど……たぶんハマらない。マイクラをテーマにしたLEGOを、本物と同じ「マイクラ」だと、認識しないだろうから。

 

 

 

 

でも、いいなあ、マイクラのLEGO

私がほしいくらいだ。

 

 

 

 

うーん、心引かれる・・・・。